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夜泣き峠
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その峠は『夜泣き峠』と呼ばれていた。僕の住んでいる地域では有名な心霊スポットで、この峠の正式な名称は知らなくても、『夜泣き峠』と言えば地元の人間なら誰でも知っているようだ。その日の夜、十一時ごろ。僕は友人のKとSと三人で、その問題の峠に向かって車を走らせていた。「県道って言うから覚悟してのにさー、中々いい道じゃねーか」そう言ったのはKだ。 確かに、元々は地元民でない僕はこの道を使ったことが無かったのだが、アスファルトも比較的新しく、ずっと二車線の道路は、心霊スポットに続く山道としては拍子抜けするものだった。「ユウレイ出るって聞いたから、どんだけ寂れた道なのか!ってドキドキワクワクしちゃってたのにさコッチはよ~。あー残念だ。ザンネン。ザ・ン・ネ・ンだあ!」「うわっ、馬鹿。やめろ」横を見れば、Kが後部座席から運転席のシートを掴んで揺らしている。運転しているのはSだった。助手席には僕が座っている。Sの父親の車だという軽自動車が、フラフラ対向車線にはみ出す。対向車は無い。あったら死んでたかもしれない。「ここで事故ったら、僕らも幽霊になって化けて出ような。そしたらここ、全国的な心霊スポットになるかもしれんし」と僕が言うと、「そらいいな」とKが笑う。騒ぐ僕らの横でSは大きく溜息をついていた。ちなみにその時のKは酔っていた。僕も酔っていた。そもそも、宅飲みで酔っぱらった僕とKが、酒の勢いで『何処か怖いとこ行こうぜ!』となり、運転役として急遽呼ばれたのがSだったのだ。「……っていうか、道路整備は当たり前だ。そんだけ需要があるんだよ、この道には。うちの街から○○(街の地名)に行くのにも、この道使えば早いしな」この車内で一人だけ酔ってないSは冷静だ。というかぶすっとしてる。その表情からは、早くこの馬鹿二人から解放されたいと言う気持ちがにじみ出ていた。ごめんなS。それでも、嫌々ながらも付き合ってくれるのが、こいつの良いところなのだが。「おれの携帯さ、録音できっから。これで赤ん坊の声取れねーかな?」「携帯の音質じゃ無理だって。よほど近くで泣いてもらわんと。ってかそんな声録音して何に使うんだよ」僕がそう言うと、Kはニヤリと笑い、「んなもん……」「うん?」「んなもん、女の子驚かすために使うに決まってんじゃねえかお前ぇ!」Kのシャウトが車内に響く。「……お前が子供泣かしたと思われて終いだボケ」隣でSがぽつりと呟いた。Kはガハハと笑って聞いてなかった。ところで、Kが言う『赤ん坊の声』とは、僕らがこれから行く予定の廃車峠にまつわる話だ。『深夜、夜泣き峠を通ると、赤ん坊の泣き声が聞こえる』とは結構有名な話。周りにも聞いたという人間はちらほらいる。嘘かまことか、聞き違いか幻聴かは置いといて。峠まではすぐそこだった。僕らの会話は自然と、昔峠で起こったとされる事件が話題の焦点になっていた。僕が聞いた話によると、ある日、家族が乗った一台の車がこの峠を越えようとした。そして峠に差し掛かった時、エンジンの故障かなにかで車が炎上した。男と女は車から逃げたのだが、一人だけ赤ん坊が車内に残された。その事故以降この峠を通ると、赤ん坊の声を聞こえるようになったという。しかも、その声が聞こえた者は、絶対に車関連の事故に遭うという。「おいおいおい!だってよS、帰りは気をつけろよ」Kの言葉にSが大きなあくびで返した。そう言えば、電話でSを呼び出した時、彼の声は幾分寝ボケていたのだが、眠たいのだろうか。「怪談ってのは……、尾ひれしか残ってないもんだ」あくびの後でSが言う。Sの方を見て「何だソレ?」とKと僕。「ここで事故が起きれば、ユウレイのせい。あれもユウレイのせい。これもユウレイのせい」そこで切って、Sはもう一度あくびをする。「尾ひれだけ……。つまり、身のない話ってことだ。覚えとけ。てかさっきからうるさいよお前ら」僕とKは顔を見合わせた。二人とも酔いの残った頭ではイマイチ理解できなかったようだ。「ほら、着いたぞ」そうこうしているうちに、僕らの車は目的の峠に着いた。道路脇に車を停めて、三人で外に出る。外灯が遠く、思いのほか暗い。Sが一度車内に戻って、懐中電灯を持って出てきた。豆電球の白い光が『夜泣き峠』の周囲を照らす。何と言うか、心霊スポットと言うだけあって、独特の雰囲気は感じ取れた。道の両脇はどちらも木が茂っていて、ザワザワと風に揺れる音がする。いつの間にか、おしゃべりのKも静かになっていた。「どうする?」とSが言った。その口はおそらく『早く帰ろうぜ、てか帰らせろ』と言いたいのだ。僕としても、夜風とこの峠の雰囲気に当たった瞬間、酔いが醒めてしまった様で、実際怖くて帰りたくなっていた。「うーん。そうだな。何もなさそうだし」帰るか、とチキンな僕が言おうとした時、「やべ……」Kが言った。「俺、聞こえた」何が?と言いかけた僕の耳にも、それは入って来た。掠れた猫の様な、でも猫じゃない。猫は『おぎゃあ、おぎゃあ』とは鳴かない。これは人間の声だ。赤ん坊の泣き声だ。「おいおい、嘘だろ」Kがうろたえていた。僕はもっとうろたえていた。Sにも聞こえたようだった。「ん……、あっちからだな」Sはそう言って、懐中電灯の光をその方向に向けた。僕らが車を停めた道路脇の反対側に、車一台が通れるくらいの横道があった。Sが照らしているのは、その細い道だった。「よし、行くか」と一言。Sがその横道に向かって行くので、僕とKは顔を見合わせた。Sは果たして正気なのかと思った。しかし、車のキーも懐中電灯もSが持っているので、僕らは慌ててSの後を追った。横道の先には、小さな広場があった。Sが持つ懐中電灯の光が、広場をくるりと照らした。草がぼうぼうに生えていて、広場を囲むように廃車が数台あった。古びて赤錆びにまみれたトラックもあれば、比較的新しい車もある。赤ん坊の泣き声が大きくなっていた。Sの後ろで僕も泣きそうだった。Kは「やっべー、やっべーよ」をさっきから繰り返している。Sが一台の車を照らした。その車は黒ずんでいた。外も、中も。ガラスは残っていない。Sが懐中電灯の光を、車から僅かに下に向ける。チャイルドシート。その車の横には、地面に直接チャイルドシートが置いてあった。隣の車とは不吊り合いな程綺麗で、新品同様と言っても良かった。泣き声はそのチャイルドシートから聞こえてきた。誰も座っていないはずなのに。Sがそのチャイルドシートに一歩近づいた。「おいSやべー。やべーって!」Kが止めるのも聞かず、Sはチャイルドシートの前まで行くと、その後ろの草むらに向かって手を伸ばした。僕はその時、泣き声の主にSが喰われるんじゃないかと本気で思った。「……あった」僕らの方に向き直ったSが手にしていたのは、一台の機械だった。ただ立ち尽くす僕らの前で、Sは手にした機械の上にあるスイッチを押した。その瞬間、赤ん坊の泣き声はピタリとやんだ。「CDラジカセだ」Sが言った。「最初は俺も驚いたけど、泣き声に規則性があったからな。こんなことだろうと思った。まあ、イタズラだな。電池が切れるまでは、赤ん坊の声がリピートするようにな」僕は茫然としていた。Kはぽかんとしていた。Sよ。お前は何処まで冷静なのだ……。「……うおおマジかよバカらしー!」Kが両手で自分の頭を抱え、身体全体でぐねぐねと意味不明な動きをした。彼なりに恥ずかしがっているのだ。「俺バカじゃん。やべーやべーとか俺バカじゃん!」それからKはチャイルドーシートに近づくと、一発蹴りを入れた。そうしてから何を思ったか、倒れたチャイルドシートをまた元通りに立たせると、「お前ら、写メれ!」その上にどかりと腰を下ろした。チャイルドシートに大の男が座っている。真夜中のこんな場所で。その滑稽な光景に、先程までの恐怖の感情も消えうせ、僕は声に出して笑った。「アホらし」と言いながらも、Sが自分の携帯を取りだして、カメラで撮った。フラッシュ。Kはふんぞり返っていた。僕も笑いながら、その姿を携帯で撮った。「……おぎゃあ、おぎゃあ!」とKが叫びだした。さらに座った状態で手足をバタつかせる。僕はまた笑った。Sも笑っていたと思う。「おぎゃあ、んぎゃああ、んぎゃああ」僕が、おや、と思い始めたのはそのあたりからだった。「んぎゃあ、ん、んぎゃああ、おぎゃああああ!」「おーい、K、もういいよ。十分撮ったから」しかし僕がそう言っても、Kは泣きやまない。それどころか、Kの泣き声はいっそう激しくなった。「……お、おぎゃあ、おぎゃあ……ぐ、おぎゃああ、おぎゃああああ!んぎゃああ」「おいK?」「ぎゃああああ、おおぎゃあああ!んっく、っく、ぎゅっ……、おぎゃああああああ!んっく、ん」いつの間にかKの泣き声は尋常ではなくなっていた。Kは本当に涙を流して泣いていたのだ。顔が歪んでいた。手足をバタつかせ大声で泣く。その声も、Kの声から、まるで本物の赤ん坊の声に変わっていた。「おぎゃああおぎゃああおぎゃああおぎゃああああおぎぎゃああああああ」「お、おい、……け、K」僕がKに向かって手を伸ばそうとしたその瞬間、Sが横からチャイルドシートごとKの身体を蹴飛ばした。「……おい!Kを持て。逃げるぞ!」Sが叫ぶ。地面に倒れたKは気を失っていた。僕はSと一緒にKを担ぎあげると、車に向かって一直線に走った。「S、S!どういうこと?」「俺に聞くな!」後部座席にKを押し込んで、Sが車のキーを差し込む。「お、おい、S。ちょっと待て!」車のエンジンが掛かる。しかし僕は思いだしていた。夜泣き峠に関する話。赤ん坊の声を聞いたものは必ず……。Sもそこに気がついた様だった。サイドブレーキを下ろそうとしていた手が止まる。しかし、躊躇は一瞬だけだった。「……そりゃ、尾ひれだ」Sは車を発進させた。Sの額に浮かぶ大粒の汗とは裏腹に、車は非常にゆっくりとした安全運転で山を降りた。Kは山を降りる際に意識を取り戻した。また泣き声をあげられたらどうしようと心配だったのだが、幸い起きたKはちゃんとKだった。「え……?何コレ。ってか、わき腹ちょーいてえんだけど……」それはSが蹴り飛ばしたからだ。でもその事実は無かったことになり、全ては赤ん坊の霊の仕業ということで落ち着いた。Kのわき腹にユウレイが噛みついていたのだと。そうして、少なくともその日は、僕らは事故に遭うこともなく、山を降りることが出来た。後日三人で集まり、知り合いの知り合いの知り合いという風に、か細いつてを頼って、遠くの街の神社でお祓いをしてもらった。その際、神主らしき人に「一応三人とも大丈夫だが、もうあの峠には行かない方が良い」と言われた。お祓いが効いたのか、そもそも何も憑いてなかったのか。あの夜の体験から数年たったが、今のところ三人とも何の事故もなく過ごしている。『夜泣き峠』を通ってて、赤ん坊を見た、声を聞いたという話は、今でもたまに聞くことがある。この前も、職場の後輩が彼女と行って、泣き声を聞いたそうだ。後輩はその時の話を詳しく語ってくれた。「事故とかは大丈夫だったんすけどね?……やっぱり、ほら。わき腹、噛まれたんすよ、ほら」確かに、真剣に語る彼のわき腹には、噛まれた様な跡があった。そりゃ、尾ひれだ。笑って流していいものかどうか、少し迷った。
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