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悪意に満ちた気
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私は数年前まで、中学校の教員をやっていた者です。学校というところは、大勢の人間が行き来するだけに、さまざまな『気』が澱んでゆく場所のようです。よい意味で清々しい気もあれば、悪意に満ちた気もある…これはそんなことではないかな、という私の体験です。私が教員になったばかりの頃ですから、今から15年以上前になります。当時、一人の病弱な男子生徒がいました。先天的に腎臓に障害があり、小学校時代から定期的に人工透析を受ける生活を続けていた彼は、自分の病を正面から受け止めて、精一杯生きている少年でした。 『頑張り屋』…当時の彼を知る周囲の一致した評価です。教室では誰もが自然に、彼に一目置いていました。体がきつい時でも笑顔を絶やさず、決して人の悪口を言わない。話も面白いし、友人の悩みごとの相談にものってあげる。学校を休みがちだったにもかかわらず、勉強でも上位の成績を維持していましたし、それを鼻にかけることもない。誰もが嫌がる秋の恒例行事『駒ケ岳縦走』も、病をおして三年間とも参加するなど、大人の我々から見ても、彼の頑張りは尊敬に値するものでした。それは学校祭も駒ケ岳縦走も終わった、晩秋のことでした。ある日の放課後のことです。部活動も終わり、生徒も下校した6時過ぎでした。すでに日は落ちて、校舎の中はもちろん外も真っ暗になっている時間帯です。日直だった私は、一人で校舎内を見回っていました。面倒なので、懐中電灯などは持っていませんでした。築20年を経た古びた鉄筋校舎の明かりは、廊下のちかちかと薄暗い蛍光灯だけです。当然、教室の中は真っ暗です。私の担任していた3年2組の教室の前まで来た時、校庭の常夜灯に照らされて窓際の机に人影が見えました。正直ぎょっとしましたが、やがてそれが彼であると気づいて、私は躊躇なく教室に入って行きました。「なんだ○○、驚かすなよ。忘れ物か?」そんな声を掛けたのだと思います。返事はありませんでした。「電気くらい点けろよ…びっくりするじゃないか」と言いながら教室の電気を点けました。古ぼけた蛍光灯が点るまで、一瞬の間がありました。見ると、彼は自分の机に座ったまま、黙ってこちらを見ています。私は、必要以上に大声になっている自分に気づきながらも、続けて彼に話しかけました。なぜだか、話しかけずにはいられない気分で…「真っ暗じゃないか。何を忘れたんだ?」彼はまだ黙っています。座ったままです。でもこちらをじっと見ています。「もう遅いから、早く帰りなさい。あったのか、忘れもの…」言いながら彼に近づいていきました。その時ふっと、彼の表情が変わったように思いました。「…何を忘れたんだ」自分の声が、無残にも尻すぼみになるのが判りました。そこに居る少年が、いつもの柔和な表情をしていないことに気づいたからです。それは…厳しい表情でした。いや、厳しいというより、何か『邪悪な』といった表現がしっくりする表情です。目がすっと細くなり、薄い唇の端が引きつって震えている。硬い頬に歯を喰いしばったような筋肉のすじが浮き上がり、色白の顔には額の血管までもがはっきりと浮き出して見えました。机の上に置いた白い指が、神経質に震えているのも判りました。やがて彼は口を開きました。「はい。もう帰ります」「あ、ああ。気をつけてな」私が先に教室を出ました。彼が口をきいたことで、何故かほっと安堵の想いが湧き上がった私は、肩越しに振り返りつつ、彼に話しかけました。「で、何を取りにきたんだ?」言いながら振り返ったそこには…誰も居ませんでした。がらんとした無人の教室。同時に私は思い出したのです。彼は先週から具合が悪くなり、県外の病院に入院していたことを。翌日、彼が亡くなったという知らせがありました。そして、級友たちに見送られて彼が旅立った葬儀の翌日。一枚の写真を持って、女子生徒たちが憤慨しながら私のところにやってきました。それは今年の駒ケ岳縦走での集合写真でした。「先生みてください、これ!!」それは山頂で撮った、クラスの集合写真でした。先日から購入希望を募るため、教室の掲示板に貼り出してあったもの。青空の下、連なる峰々を背景に、それぞれ思い思いの格好でポーズするクラスメイトたち。しかし、その顔には…画鋲を無数に突き刺した痕がありました。全員の顔に、ブツブツと乱暴に穿たれた傷痕。…いや、正確には「一人を除いて」。ボロボロの写真の中には、彼の笑顔だけがあったのです。これは私の単なる錯覚に違いないと思いたいのです。でもあの教室での彼の表情を思い出す度に、ひやりとするものが私の心に甦るのも事実なのです。
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