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窓を越える老婆
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長編13分
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俺はある機械メーカの技術者なんだけど、うちの機械は世界各国の工場でも使われている。で、据付や調整、指導なんかで1ヵ月ほどそこに出張というのが年に1、2回あった。これは最近、近所の大国へ行ったときの話なんだ。機械を買ってくれた工場は、発展している沿岸部からそう遠くない所にあった。でもすんごい田舎で、大きな工場の周りにはほとんど何もないような所だった。工場は昔の国有工場で、数年前に台湾の会社との合弁会社になり、設備投資を始めたんだ。その台湾の会社から、管理職や技術者が数人来ていて、王さんという技術者が日本語ぺらぺらで、俺の通訳や世話をしてくれた。 その王さんから、「一人で工場の外へは出ないように」と言われていた。俺が?でいると、「外へ出ても何もない。田舎だし、外国人に対するマナーもない。言葉も通じないし、迷子になったらタイヘン」という答えで、まるで監視するかのように朝食から寝るまで、びったり俺に付いていた。夕食後に散歩に出ようよと言っても、「何もないです」と絶対ウンと言わない。俺が行ったときの歓迎会と、週末の食事と買い物に車で15分くらいの町へ台湾人達と出かけるだけ。お国柄的に、外国人が行ってはいけない秘密施設でもあんのか?と思ったくらい。確かにゲストハウス用の食堂で三食食べられるし、商品に難があるが売店もあり、外へ出る必要がなかったんだが。それまでいろんな所へ行ったが、どんな所でも町の様子をぶらぶら見るのは楽しいものだったし、ここでもそうできると思ってたんだ。2週目の土曜になると、相当退屈になってきた。王さんも俺のお守りに疲れてきたみたいだった。昼食時、「今日の午後はたっぷり昼寝するよ。王さんも休んでくれ。夕食時にまたな」と言うと、王さんはちょっとホッとした感じで、「わかった。ゆっくり休んでいてください」と自室へ帰った。それで俺は、工場の周りを散歩することにした。退屈しのぎになるかと思ってね。まあ秘密施設があったら怖いが、何か見かけたら戻ればいいし、くらいに考えてた。門まで来たら、守衛が俺に向かって何か言ったが、当然、全くわからない。守衛の舌打ちを無視して、俺は外へでた。外出は車ばかりだったし、注意して見てなかったが、門の向かいや左右に、工員向けのよろず屋みたいなのと、食堂が数軒。真ん中だけ舗装されているホコリっぽい道を歩き出した。畑とポツポツと古い家があるだけで、ほんとに何もない…引き返そうかという時、畑横の1軒の朽ちかけた家の中から、ガサガサッという音が聞こえた。え?ここに人が住んでるの?屋根も壁もボロボロだし、窓にガラスも入ってない。もしかして野犬?こっちは狂犬病が多いと聞いていたのを思い出し、途端に怖くなった。すると「ぐぅぇぇ…」という声が家の中から聞こえた。え?え?と俺は凝視モードに入った。ガラスのない窓枠に、屋内から枯れ枝のような手がぶら下がっているのが見えた。爪が異様に長い。魅入られたように見ていると、窓の下からばさばさの白髪が現れ、ゆっくりと、しわくちゃの婆さんが顔を半分のぞかせた。その婆さんの目は病気なのかなんなのか、白い半透明の膜みたいものがあって黒目がはっきり見えない。恐ろしさがこみ上げて来て、俺は工場の方へ走り出した。途端にガッ!と肩を掴まれた感触があった。そりゃもう、必死で走って帰ったよ。守衛が驚いたように俺を見ていたがそれどころではなく、自分の部屋に転がり込んでへたり込んだ。あの婆さんはなんだ?普通に住んでる人だったのか?しかしあんなボロ家に?もしそうで、病気だったんなら、走って逃げて気を悪くしただろうか?あっ、見えてないのか。などど、心臓バクバク状態であれこれ考えた。そういえば、肩を掴まれた感触が??と思って、Tシャツをずらして肩を見てみると、細い三日月のような赤いスジが3つ並んでる。と、反対側に1つ…あの婆さんは人じゃないのか!?って震えた。夕食時、王さんが「よく休めましたか?」と聞いてきた。俺は、ボロ家で見たことを話そうかと思ったけど、怒られそうなので「うん」と曖昧に答えておいた。その晩も王さんが部屋にやって来て、あれこれ話して過ごし、婆さんと肩の傷のことは忘れかけていた。王さんも自室に戻り、風呂でも入ろうと空きベッドに広げておいたスーツケースから着替えを出そうとかがみこんだ。その時ちょうど後ろ側にある開けていた窓のほうで、ガリッ、て音がしたんだ。ん?なんだ?と一瞬思い固まったが、もう音はない。気のせいかと着替えをあさっていると、またガリッ、ガリッという音がした。俺はかがみこんで着替えをつかんだまま、恐怖で固まった。見てはいけない、見てはいけない!どれほど固まっていただろうか。怖くて全く動けなかったんだ。が、「ぐぅぇぇ…」という声が聞こえて、俺は気が狂ったように振り向いた。俺の部屋の窓枠に、外からしわくちゃの手、長い爪がしがみついてたんだ。そしてぼさぼさの白髪と、膜がかかったような目がだんだん見えてきた。昼間は半分しか見えなかった顔が、ゆっくりと、全部現れてきた。土気色のしわくちゃ顔に、線を引いたような薄い唇だけが真っ赤だった。俺が動けなくて凝視していると、婆さんが突然ヒラリというか、ふわっというか、急に窓枠の上に上がって来たんだ。そこで俺は弾かれたように立ち上がって、なんか叫びながら、転げるようにして部屋から出た。俺の叫び声を聞いて、ゲストハウスの台湾人たちが部屋から飛び出してきた。王さんもすっ飛んで来て、「どうしました?どうしました?」と聞いてくる。俺は腰が抜けて廊下にへたり込み、部屋を指差して「ば、ば、婆さん、窓、窓」としか言えなかった。王さんらが俺の部屋へ入っていったが、すぐに出て来て、「何もないですよ。一体どうしたんですか?」他の台湾人に水をもらって、人に囲まれた俺はちょっと落ち着き、昼間のボロ屋の話から始めた。王さんの顔がこわばる。王さんが中国語で皆に話すと、皆「アイヤ…」と首を振った。「…だから、一人で工場の外へ出るなと言ったでしょう!」王さんも、首を振り振り言った。そうだ。肩の傷はどうなった?と思いめくってみると、赤いスジだけだった傷は膨れ上がり、熱を持ったようになっていた。ずきずきと痛みも感じ始めた。王さん達はその傷を見て、もっと深刻な顔になっていき、なんやらワアワア話し始めた。何人かは携帯を出してきて、あちこちに電話し始めた。婆さんも怖かったが、台湾人達の緊迫した様子を見て、俺はたいへんな事態なんだと、もっと怖くなった。その晩は王さんの言葉に従って、王さんの部屋で王さんともう一人の台湾人と寝ることになった。俺はもう怖いのと、肩が痛いのと、疲れたのでベッドでぐったりしていたが、王さんともう一人の台湾人は、なにやらヒソヒソと、ずっと話し込んでいた。翌日朝早く、ゲストハウス前に迎えの車が来た。この工場に元々いるという幹部職員が乗っていて、王さんともう一人の台湾人と一緒に、俺も車に乗って出かけることになった。「日曜なのに王さん、みなさんにすまない。でも、昨日のあれは何なの?これからどこへ行くの?」と王さんに聞いた。王さんは一瞬怖い顔をしたが、すぐにっこり笑って、「だいじょうぶです。これから解決に行くのです」としか言ってくれなかった。車で小一時間ほど走っただろうか。よく似た田舎の風景、よく似た農家らしき一軒の家で車は止まった。門内の中庭に中年の女性が待っており、土間の部屋には盲目らしい婆さまが座っていた。部屋はうす暗く、大きなロウソクが焚かれ、線香か何かの匂いで咳き込みそうになった。拝み屋さんか?と思いながら、促されて婆さまの前へ行き座った。俺が近づくと、婆さまは思いっきり顔をしかめて何やら言った。工場幹部や王さん、中年女性が何か言う。しばらく話が続いたが、俺は言葉もわからないし、王さんも何も聞いてこないのでずっと黙っていた。婆さまは紙と筆を用意させ、ブツブツつぶやきながら、紙にしゃらしゃらと絵文字のようなものを書き、拝むような仕草を何度もした。この時は誰も何も話さず、俺は異界に迷い込んだようで益々怖くなった。次に婆さまは皿に紙を置いて、ロウソクで火をつけて燃やし、またブツブツ言った。王さんが俺に、シャツをめくって肩を見せるように小声で指示した。婆さまは俺の傷が見えるのか?ブツブツつぶやきながら、灰を傷に塗りつけた。俺は痛くて思わず「ウッ!」と言ってしまったのだが、王さんに手で牽制された。何度か灰を塗りつけた後、中年女性が碗に水のようなものを入れて持ってきた。婆さまは、灰をつまんで碗に入れてブツブツ言うと、俺の前に差し出した。俺が王さんを見ると、王さんは黙ってうなずいたので、俺は恐る恐る飲んでみた。灰がちょっと苦かったが、普通の水だったように思う。合計三枚の紙に何やら書かれ、同じ行動を繰り返した。婆さんが大きな声で叫んだ(かなりビックリした)あと、王さんが「終わりました」と口を開いた。中年女性が、絵文字を書いた紙を俺にくれた。王さんが「いつもそれを持っていてください」と言った。帰りの車では誰も何も言わなかった。ただ、それから三日ほど王さんの部屋で寝るように言われた。その後も王さんは何も言ってくれないし、俺も聞く気になれなかった。俺は心底怖かった。ビビリと思われるだろうが、しばらく一人になるのが怖かった。窓の方も見られなかった。異国の地で異形の婆さんを見て、拝み屋へ連れて行ってもらい、護符のようなものまで持たされたんだ。翌日からの仕事中も上着の胸ポケットに護符を入れ、風呂に入る時は護符を洗面台の上に、寝る時は枕もとのテーブルに広げておいた。傷の腫れはすぐひいて、三日目くらいにはスジも薄れてきた。次の土曜日、同じメンバーであの婆さまの所へ連れて行かれた。婆さまは今回顔もしかめず、一回きり紙にしゃらしゃらと何かを書いて灰にし、水に溶かして俺に飲ませ、両手でパンパンと俺の肩を叩くようにして、大声でなんか言った。王さんが「もうだいじょうぶです。もう怖くありません。よかったですね」と、笑って言った。俺が持たされていた護符も、皿の上で焼かれた。帰って来て、王さんの部屋で二人になった時、俺はあの婆さんはなんだったのか聞く勇気が出てきた。「何かは、私もほんとうに知らないです。でも悲しいこと、不思議なこと、怖い噂はどこにでもあります」「私達がここへ来た時、一人で空家へ近づいてはいけないと工場の人に言われました。ここの人達はみんな、一人では絶対に通りません。でも以前一人、一緒に来た台湾の仲間が一人で行って、あなたと同じように、とても怖い目に遭いました。だから、あなたにも絶対ダメですと言いました。あなたに、正直にこの怖い話をすればよかったですね」とだけ、王さんは話してくれた。あと、「最初あなたが近づいた時、あの婆さまは『死臭がする』と言って、嫌な顔をしたのですよ」とも。「でも、もうだいじょうぶです」他は、笑って一切教えてくれなかった。その一人で行った台湾人はどうしたのか、その時はどんなだったのか、それも王さんは言ってくれなかったし、俺もそれ以上は怖くて聞けなかった。その後何も起こらず、俺も皆もその件に関して何も言わず、残り一週間、契約通りの仕事をして日本へ帰ってきた。帰り際、王さんや台湾人、工場の人達に何度も礼を言った。皆、気にするなみたいな感じでポンポンと肩を叩いてくれ、握手で別れた。日本でも、また他国での出張時にも、何も起こらずこうしている。でも今でも、拝み屋の室内の雰囲気と、強烈な線香の匂いは忘れられないし、窓を見ると、あの婆さんの顔と、ふわっと窓枠に上がった姿を思い出してゾッとしたりする。
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