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異界
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大学もバイトも、何もイベントのない日。昼寝から起きると、時刻は午後五時になろうとしていた。携帯を見ると、一通のメールが届いている。知り合いからだ。その人とは、大学一年の時にボランティアを通じて知り合った。メールもボランティアメンバー全員に宛てたものだった。メールの内容は、『○○公園のソメイヨシノが開花したよ』というちょっとしたお知らせ。大きく拡大した桜の花びらの写真も添えてある。 四月四日のことだった。僕の家の近くには、桜の名所として全国的にもそれなりに有名な公園がある。標高二百メートルくらいの小さな山の山頂にある公園で、山には桜並木の他に、広いグラウンド、美術館、寺、展望台、また山頂に繋がるロープウェイもあり、地元の人はそれら全てをひっくるめて○○公園と呼んでいた。休日となると観光客も訪れ、春には花見客が地面に敷くブルーシートで公園中が青くなる。そんなにぎやかな場所だった。夕食の食材を買いに行くついでに桜を見に行こう。そう思い立った僕は、簡単に身支度を済ませて原付に跨った。山に沿って建てられた住宅街からカーブの多い山道を上り、○○公園へ。いつもは子供たちが野球の練習をしている公園敷地内のグラウンドの端に、原付を停めた。風はなく、上着は必要なさそうだ。僕は公園全体をぐるりと一周するつもりで歩きだした。散歩コースとしても、この公園は中々良い。事実、平日の夕方にも関わらず、何人か犬を連れて散歩する人や、ジョギングをしている人とすれ違った。道の脇に植えられた桜は、見たところ二分咲きほど。開花したと言ってもまだ蕾の方が多い。それでも、人はいないが屋台のテントを三つほど見かけたり、大学生らしき若者たちが数人、ベンチのある広場に集まってお酒を飲みながら騒いでいたりと、花見シーズンがもうそこまで来ているのだと感じさせる。僕はだらだらと歩き、立ち止まっては桜を見上げ、また歩く。桜並木から少し離れ、右手にグラウンドが見える坂を下る。左手に、今はもう誰も住んでいないだろう廃屋の横を通り過ぎた時だった。廃屋の向こう側に道がある。立て札があり、『○○墓地入口』と書かれている。この辺りに墓地があることは知っていた。けれど、その墓地へと続く道の脇にはもう一つ道があった。おや、と思う。知らない道だ。ちょっと覗いてみる。林の中へ分け入る道。舗装はされておらず、折れた木の枝などが所々に落ちていて、頻繁に人が使っているわけではなさそうだ。人とすれ違うのにも骨が要りそうなほど細い道が蛇行しながら、こちらから見れば下向きに伸びている。どこに繋がっているのかは分からなかった。どうせ暇だから来たんだしと思い、僕はその道を下りてみることにした。知らない道を行くのは、何だか冒険をしているようでワクワクする。顔面に蜘蛛の巣の特攻を受けながら少し進むと、木々の隙間、眼下に、僕が原付で上って来た側の住宅地が見えた。帰りがけに寄ろうと思っていたデパートの看板も見える。あの辺りに出るのかと思いながら、もう少し歩を進める。すると、前方に分かれ道があった。下っている右の道と、若干上りになっている左の道。どちらかと言えば右の方がちゃんとした道に見えたので、僕は右の下りる道を選んだ。思った通り、その道はデパート近くの住宅地に出た。傍らにはお坊さんを彫ってある大きな岩があって、その横の朽ちかけた立て札は、『思索の道。この先○○寺』と辛うじて読める。来た道を逆に、分かれ道まで戻る。さて、どうしようか。結局、僕は来た道は選ばず、まだ行ってない方の道へと進むことにした。小さな山だ。きっとどこか知った道に合流するだろうと、そう思っていた。この時、僕はまだ好奇心に支配されていた。それから少し歩くと、道のすぐ傍らに一匹の痩せた犬が横たわっていた。歩を止める。ぴくりとも動かない。しばらく見やって、死んでいるのだと知った。小バエが数匹、辺りを飛び回っていた。毛並みは茶色。腐敗はそこまで進んでいないようだったが、耳の根元が黒ずんでおり、眼球がなくなっていているのが分かった。そこからハエが体内に出たり入ったりしている。どうしてこんなところで死んでいるのだろう。野良犬自体なら、この公園近辺には多くいる。観光客がくれる餌を求めてやって来ているのだ。けれど、目の前で横たわる犬は首輪をしているように見えた。そのまま犬の傍を通り過ぎ前へと進むか、そうでなければこのまま引き返して来た道を戻るか。僕は選ばなければならなかった。少しばかり迷う。そうしてから、僕はゆっくりと足を前に踏み出した。正直、死骸は怖かった。いや、怖いというよりは、ただの毛嫌いだったのかもしれない。ドラマなどで見る安っぽい死ではなく、目の前の犬の肉体は限りなくリアルだった。そうして、だからこそ、気持ち悪いから逃げ帰るなんて失礼だと思った。死骸の様子を間近で見る。途端に一つ心臓が跳ねた。首輪だと思っていたものは傷口だった。喉元がばっくり開いていて、そこから染み出した血が黒く固まり、首輪のように見えたのだ。犬同士の喧嘩の末にこうなったのだろうか。しかし、傷口は噛み痕には見えず、何か刃物で切られたようにまっすぐ喉を裂いていた。注視したせいか吐き気を覚える。やっぱり引き返した方が良かっただろうか。白い歯が覗く半開きの口は、僕に何かを訴えているようにも見え、頭が勝手に、目の前の死骸がいきなり喋り出す様を想像した。ただの穴となった眼窩から蠅が飛び出して、僕の胸にとまる。不安と一緒に払いのけて、犬に向かって手を合わせた。そうして僕は犬の死骸を背に、その先へと進んだ。先程も書いたが、僕はこの道は、どこか住宅地から寺や公園へ上がるいくつかの道のどれかに合流するんだと、勝手に思いこんでいた。犬の死骸のあった場所からもう少し進むと、足元に道は無くなり、閑散と木の生えた場所に出た。見たところ、行き止まりのようだった。目の前の木の枝に、キャップ帽とトレーナーが一着引っかかっていた。二つとも色が落ちくすんでいる。その木の根元には、蓋の取っ手が取れたやかんがあった。やかんの向こうには、トタン板と木材が妙な具合に重なり合って置かれていて、傍にコンクリートブロックで出来た竈のようなものがある。火を起こした跡もあった。その他にも、辺りには金色の鍋や、茶色い水の溜まったペットボトル、ボロボロの布切れ、重ねて置いてある食器類、何故か鳥籠もあった。中には鳥ではなく、白い棒きれのようなものが何本か入っていた。一瞬それが骨に見えて、ギョッとする。でも鳥の骨にしては大きい。だったら骨じゃない。けれどもじゃあ何なのかと問われると、僕には答えられなかった。いずれにせよ、それらは確かにこの場所で人が暮らしていたという痕跡だった。崩れたトタン板や木材は家の名残だろうか。そこにある品々の古さや具合から、今もここに人が寝泊まりしているとは考えにくかったが、林の中で忽然と漂ってきた生活臭は、あまり気持ちの良いものではなかった。すでに冒険心は小さくしぼんで、代わりに不安という風船が大きく膨らんできていた。ホームレスだろうか。つい先程見た犬の死骸を思い出す。関連があるとは思いたくないが。いずれにせよ、こんなところでこんなところの住人と対面するのは極力遠慮したかった。ただそうは言っても、来た道を引き返し、またあの犬の死骸の脇を通るというのも気が進まない。辺りは徐々に暗くなり始めていた。時刻は午後の六時を過ぎている。他に道はないかと、僕は周囲を見回した。すると、行き止まりかと思っていた箇所に、辛うじてそれと分かる上へと続く道があった。戻るか進むか天秤にかける。僕は迷っていた。この道が本当にどこか知っている道に合流している、という自信は霞みかけていたし、犬の死骸を踏み越えても元来た道を戻るのが正解に思えた。その時だった。気配を感じる。微かに枝を踏む音。僕がやって来た方の道から聞こえた。誰かがこちらへやって来る。新たな重りが加わり天秤が傾く。僕は咄嗟に新しく見つけた道へと進んでいた。僕のような好奇心でやって来た者か。もしくはここに住むホームレスか。どっちにせよ、遭遇はしたくない。急な道だった。道の途中にはもう数ヶ所、人の寝床と思しき箇所があった。それは大きく突き出た岩の下に造ってあったり、小型車程の大きさの廃材を使ったあばら家だったり、ある程度密集したそれらは、まるで集落のように見えた。上って行くにつれて道は霧散し、もうケモノ道とも呼べないただの斜面になっていた。それでもしばらく上ると、たたみ二畳ほどの広さで地面が水平になっている場所に出た。そこにも人の生活の気配がうかがえた。灰の詰まった一斗缶。黒い液体が溜まった鍋。木の根もとに並べられたビールの缶。枝に吊るされたビニール傘。先の欠けた包丁。そして小さなテント。僕は足を止めてそのテントを見やった。異様だったからだ。三脚のように木材を三本縦に組み合わせて縛り、その周りをブルーシートで覆っている。高さは僕のみぞおち辺りで、人が入れる大きさではなかった。一体、何のためのテントなのか。テントの周りにはハエが飛んでいた。虫の羽音。そして、羽音とはまた別の音が聞こえる。タ。タ。タ。それは、閉め忘れた蛇口から落ちた水滴が、シンクを叩く音に似ていた。地面と僅かにできた数センチの隙間。覗くと、銀色をした何かがテントの中に置かれていた。鍋のようだった。おそらく鍋は受け皿で、あの中に水滴が落ちている。ハエが飛ぶ。僕の心臓がやけに早く動く。異臭。僅かに風向きが変わったのか。生臭い匂いだった。以前にも嗅いだ事がある。確か小さな頃、目の前で交通事故が起こった時だ。匂いの質は同じだけれど、あの時よりももっと酷い匂い。鼓動が骨を伝わり、足が震えだした。どこか遠くで犬の鳴き声がした。公園に住みつく野良犬だろうか。首を切られ、横たわって死んでいた犬を思い出す。現在、テントの外に置いてある鍋の中には、なみなみと黒い液体。赤黒い液体。いや違う。血だ。血の匂い。タ。タ。タ。水滴がシンクを叩く音。僕は混乱していた。はやくこの場から去りたいのに、足が動かなかった。それどころか、足が勝手に動き、自分の腕が青いテントに向かって伸びていた。めくろうとしているのだ。中を見ようとしているのだ。やめろ。声は出ず、心の内で叫ぶも、僕は止まらなかった。そうして僕は、ブルーシートをめくった。臭気が這い出て来る。何匹かのハエが、僕の行動に驚いてかテントの傍を離れた。息を飲んだ。中には一匹の犬が逆さに吊られていた。喉元が裂かれていて、傷口から血が鍋の中へ滴り落ちている。黒犬だ。舌が垂れ、見開いた目が地面を睨んでいた。タ。タ。タ。血が鍋の底を叩く音。僕の手が驚くほど緩慢な動きでゆっくりとシートを元に戻した。足も手も震えて、声にならない声が腹の奥から上がって来て、今にも叫びだしそうだった。懸命に自分を押さえる。息が荒くなっていた。上手く呼吸が出来ない。その場にしゃがみ、胸の辺りを掴み、目を瞑り、落ち着くまで待とうとした。「何しゆうぞ」人の声がした。振り向くと、そこに人間がいた。どうやら僕は自分のことに精いっぱいで、近づいて来る足音にも気付かなかったらしい。男だった。赤いニット帽を被っている。革のバッグを背負い、黒いジャンパー、履いているのは青いジャージだ。顔には無数のしわが刻まれていて、頬が少し垂れている。年齢は良く分からなかったが、六十代の半分は過ぎているだろうか。男は、ぐっと腰を曲げて、しわの延長線上のような細い瞼の奥にある光の無い目で、僕のことを見つめていた。僕は何も反応ができなかった。男はそれから青いテントに目を移した。「……ああ、ああ、見たんか。兄ちゃん。そうか」ぼそりぼそりとそう言って、それから低く笑った。「見えんようにと、被せたんにのう」その時の僕は、今しがた見てしまったモノに対するショックと、突然現れたこの人物に対する驚きで、身体も精神も固まっていた。どうやら人間は、許容量を遥かに超える負荷をかけられると、肝心な部分がどこかへ行ってしまうらしい。男はその手に犬を抱いていた。死んでいる。僕が先程見た眼球のない犬だ。僕は夢でも見ているようなぼんやりとした心持ちで、その光景を眺めていた。「ああ、こいつか?こいつぁ、おれの犬だな」男は僕の視線に気がついたのか、そう言った。「こいつぁな、野村のヤツが殺した。おれが留守にしとる間に。……そうにきまっとる。犬嫌いやけぇあいつは……、俺の犬や言うとろうが。俺が骨もやっとったし、紐もつけとる。やのに、野村のヤツが……」ぶつぶつと誰もいない茂みへ忌々しげに吐き捨てると、男はもう一度僕の目を覗きこみ、こう続けた。「兄ちゃん。勘違いしたらいかん。……こいつは食わんぞ?俺の犬やきの」男は歯がだいぶ欠けていた。僕の中の糸が切れた。いや、繋がったのかもしれない。僕は起き上がり、その場から逃げた。どう逃げたのかは覚えていない。ただやみくもに斜面を上ったような気がする。途中、転んだかもしれない。悲鳴を上げたかもしれない。何も覚えてない。気付けば、僕は見知った道の上に立っていた。道の向こうに原付を止めたグラウンドが見える。傍らに見覚えのある、墓場へ誘導する立て札。立て札の脇には、僕が好奇心をくすぐられて入ったあの細い道の入り口があった。いつの間にか僕は入口に戻ってきていたのだ。息が切れていた。近頃運動らしい運動もしていなかったからか、身体のあちこちが痛かった。見ると、気付かないうちに手の甲に怪我までしていた。しばらくの間、僕はその場に立ち尽くしていた。張りつめていた緊張感が爆発したツケか、頭の中で余熱が暴れ回っていた。これが冷めない限り、正常な思考は出来そうもない。目を瞑ると、先程見た様々な光景がフラッシュバックした。時間はどれくらい経っただろう。陽はもう西の山の向こうに沈んでいた。僕は歩きだした。グラウンドの傍にある自販機で350ミリリットルのお茶を買うと、一気に飲んだ。火照った身体と頭が、それで少し冷えた気がした。遠くの方で誰かが笑っている。この公園にやって来た当初にも見た若者たちが、未だ桜の要らない花見を続けているのだろう。腹の中の全てを絞り出すように大きく息を吐く。もう少し日にちが経てば、満開の桜の下、公園はたくさんの花見客でにぎわうことになる。それは毎年繰り返される当たり前の光景だ。けれども、そんなにぎやかな場所から林のカーテンを一つ隔てた先には、全く別の世界がある。僕は今日、それを知ってしまった。思う。あの男はホームレスだろう。そして、テントの中で吊るされていたあの犬は食料だ。最後に聞いた男の言葉がそれを物語っていた。頸動脈を切られ、吊るされて、血抜きをされていたのだ。犬を食べる。聞いたことはあった。タイや韓国などアジアを中心とした国では、市場の店先に普通に犬の肉が置かれていることもあると。捌き方や調理法さえ知っていれば、日本の犬だって食べれないことはないだろう。ましてや調達の手間を考えても、観光客から餌をもらうのに慣れた犬など捕獲し殺すのは簡単だ。野良犬ならば、動物愛護団体にでも見つからない限り、法的に罰せられることもない。別にあのホームレスが何かをしたわけではない。魚を釣って料理していたのと同じだ。生きるために他の動物を食べることを止める権利など、誰も持っていない。ふと、目の前を犬を連れた女の人が通り過ぎた。散歩が終わり、愛犬と自宅に戻るのだろう。首輪に繋がれた小さな犬が、僕に向かって一つ吠えた。血の匂いでも嗅ぎ取ったのか。犬だけを特別扱いする理由はない。その理屈は分かる。でもやはり、もやもやとした何かは残った。嫌悪感と言っても良い。僕でなくても大抵の人はそうだろう。僕の家では犬は飼ってはいなかったけれど、祖母の家が飼っていた。可愛い犬だった。あの男だってそうだ。男は『自分の犬は食わない』とそう言ったのだ。ペットとして飼っていたのだろうか。餌はどうしていたのだろう。鳥籠の中にあった骨を思い出した。自分が食べた後の犬の骨。そこまで考えて、止めた。人に飼われる犬。人に喰われる犬。犬を喰う人。犬を飼う人。遠いようで、それらを隔てる壁は案外薄いのかもしれない。少なくともこの場では、その隔たりは閑散とした林だけだった。それとも、二つは完全に分かれていて、僕が迷い込んだことがただの例外だったのだろうか。異界。そんな言葉が思い浮かんだ。大げさだと自分でも思う。僕は首を振って、重い腰を上げた。帰ろう。そう思った。これから何をしようという気はなかった。夕飯の買い物に行く気にもならなかった。公園に野良犬が多いと保健所に苦情を言う気も、ホームレスをどうにかしてくれと役所に頼む気も。声が聞こえる。もう暗いのに、若者たちはまだ騒ぎ足りないようだった。原付に跨り、エンジンをかける。それでも、今年はここでの花見には来れそうもない。走り出す直前に、ふと犬のなきごえが聞こえた気がした。けれどもエンジン音のせいで、それが本物かどうかは僕には分からなかった。
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