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  • 蛍とは

    変な家: 1 (HOWLコミックス)
  • 八月。

    開いた窓から吹きこんでくる風と共に、
    微かに蝉の鳴き声が聞こえる。

    時計は午後六時を回ったところ。

    陽はそろそろ沈む準備を始め、
    ラジオから流れて来る天気予報によれば、
    今夜も熱帯夜だそうだ。

    僕を含め三人を乗せた軽自動車は、
    川沿いに伸びる一車線の県道を、
    下流域から中流域に向かって走っていた。

    運転席にS、助手席に僕、後部座席にK。

    いつものメンバー。

    ただ、Kの膝の上にはキャンプ用テント一式が入った袋が乗っていて、
    車酔いの常習犯である彼は身体を横にすることも出来ず、
    先程から苦しそうに頭を若干左右に揺らしている。





    僕らは今日、
    河原でキャンプをしようという話になっていた。

    Kが持つテントの他にも、
    車のトランクの中には食料や寝袋、
    あとウィスキーを中心としたお酒等も入っている。

    夜の川へ蛍を見に行こう。

    言いだしっぺはKだった。

    何でも、彼は蛍のよく集まる場所を知っているらしい。

    意外に感じる。

    Kはオカルティストで、
    いつもならこれが『幽霊マンションに行こうぜ』やら、
    『某自殺の名所に行こうぜ』となるのだけれど、
    今回はマトモな提案だったからだ。

    「蛍の光を見ながら酒でも飲もうぜ」

    とKは言った。

    反対する理由は無い。

    でもそれだと車を運転する人が、
    つまりSが一人だけ飲めないことになる。

    「お前だけジュースでも良いだろ?」

    と尋ねるKにSは、

    「お前が酒の代わりに川の水飲むならな」

    と返した。

    だったら、
    不公平のないよう河原で一泊しようという話になった。

    キャンプ用品はSが実家から調達してくれた。

    川の流れとは逆に上って行くにつれ川幅は徐々に狭くなり、
    角の取れた小さく丸い石よりも、
    ごつごつした大きな岩が目立つようになってきた。

    D字状に旧道と新道が別れているところに差しかかる。

    山沿いに大きくカーブを描いている旧道に対して、
    新道の橋はまっすぐショートカットしている。

    車は旧道の方へと入って行った。

    川を跨ぐ歩行者用の吊り橋のそばに車を停める。

    吊り橋の横には河原へと降りる道があった。

    僕とSの二人で手分けして荷物を河原まで下ろす。

    その荷物の中には、
    車酔いでダウンしたKという大荷物も含まれていた。

    川はさらさらと音を立てて流れている。

    川幅は十四,五メートルといったところだろうか。

    対岸はコンクリートの壁になっており、
    その上を県道が走っている。

    時間が経ち、陽の光が弱くなるにつれ、
    透き通っていたはずの緑は段々と墨を垂らしたように黒くなってゆく。

    蛍の姿はなかった。

    出て来るのは完全に暗くなってからだと、
    ようやく回復したらしいKが言う。

    「雲も出てるし、風邪もねえし、絶好の蛍日和じゃん」

    蛍は、自分達以外の光を嫌うものらしい。

    それがたとえ僅かな月明かりでも。

    「Kって蛍に詳しいん?」

    「蛍だけじゃねえよ。
    俺は昆虫博士だからな。
    なにせヤツらは、
    そもそもは地球外から降って来た宇宙生物って噂だし」

    ああなるほど、と僕は思う。

    そんなこんながあってから、
    三人でテントを張った。

    河原では地面にペグが打ちこめないため、
    テントを支えるロープを木や岩などに結び付ける。

    五~六人の家族用のテントなので、
    中は結構広い。

    そのうちKが、
    小型ガスボンベに調理用バーナーを取り付けて鍋を置き、
    湯を沸かし始めた。

    テントを張る時の手際を見た時も思ったけれど、
    Kは意外とアウトドア派なのだろうか。

    Sに尋ねてみると、

    「……おかげでガキの頃は色々連れ回された」

    と嘆いてから、
    「いや、今もだな」と付け加えた。

    それからKは、
    大きな石を移動させて大雑把な囲いを作ると、
    周りの木々を集めて組み立て、たき火を起こした。

    僕も手伝おうと薪を拾ってくると、

    「そりゃ生木だお前。煙が出るだけだぞ」

    と笑われた。

    夕食が完成した頃には陽はだいぶ落ちて、
    辺りはオレンジ一色だった。

    夕食は、
    ぶつ切りにしたキャベツやニンジンや玉ねぎやナルトや魚肉ソーセージを
    一緒くたに放りこんだ、
    ぞんざいなインスタントラーメン。

    でも見た目はアレでも味は中々で、
    鍋はすぐに空になった。

    ラーメンが無くなると、
    紙コップにウィスキーを注いで、
    三人で乾杯した。

    残ったキャベツやソーセージをつまみに。

    Sは何もなしで飲んでいた。

    たき火の火に誘われてか、
    小さな虫たちがテントの周りに集まって来ていた。

    蠅を一回りでかくしたような虫に、
    腕や足などを何箇所か噛まれて痒い。
    「テジロちゃんだな」とKが言った。

    何でも、捕まえてよく見ると、
    前足の先が白いんだそうだ。

    だから手白。

    「よっしゃ、捕まえてみるか?」

    「……蠅を見に来たわけじゃないでしょうが」

    「そりゃそうか」

    僕らは蛍を見に来たのだ。

    「まだ出てこないね」

    時刻は午後八時を回っていた。

    辺りはもう十分暗い。

    「そろそろだろーな」

    そう言うとKは立ち上がり、
    空の鍋に川の水を汲んできて、
    たき火の上にそれをかけた。

    火が消え、
    辺りは目に見えて暗くなる。

    雲が出ていて月明かりもない。

    辛うじて、
    テントの入口あたりに置いておいたガスランタンの小さな光だけが、
    視界を奪わないでくれていた。

    暗闇の中、僕らはしばらく何も喋らず、
    黙ってウィスキーを胃袋に放りこんでいた。

    「……そう言えば、お前らには話してなかったっけか」

    沈黙を破ったのはKだった。

    「この辺りじゃあな、
    数年に一度、丁度これくらいの時期に、
    蛍が大量発生するんだとよ」

    興味を引かれた僕は、
    「へえ」と相槌を打つ。

    「数年置きとかじゃなくて、
    本当にランダムなんだそうだ。
    研究者の間でも確かな原因は分かってない。
    ……でもな、この辺りじゃ、密かに噂されてる話があってな」

    Kの表情は分からない。

    輪郭は辛うじて分かるけれど、
    この明かりでは互いの表情までは見えなかった。

    「この川な。
    下流はそうでもないが、
    中流辺りだと突然深くなる場所とか、
    渦を巻いてる箇所とかあってだ。
    けっこう溺れて死ぬ奴がいるんだわ。
    近隣の小学生とか特にな。
    もちろん、そういう場所は遊泳禁止には指定はされてるんだが、
    ……ま、子供の好奇心にゃ勝てんわな」

    僕はふと、
    自分のコップが空になっていることに気付いた。

    ウィスキーのビンを探したけど、見えない。

    「まあ、そうは言っても、数年に一人か二人だけどよ。
    でも、重なるらしいんだよな。
    水死者が出た年、蛍が大量発生する年。
    ……ああ、わりいわりい。ウィスキー俺が持ってるわ」

    Kが僕の方にビンを差しだし、
    僕はKに紙コップを差しだす。

    タタ、と音がして、
    辛うじて白と分かるコップに、
    何色か分からない液体が注がれた。

    「……今年は、その、溺れた子がいるん?」

    一口飲んで、
    焼けるような喉の刺激が去ってから、
    僕は尋ねる。

    Kは「うはは」と笑って、

    「そんなこたぁ、俺はシラネー。
    ここには蛍を見に来ただけだからな」

    と言った。

    「んでだ。その話には、もう一つ不思議なことがあってな」

    Kが続ける。

    「日本で見かける蛍ってのはさ、
    ゲンジボタルかヘイケボタル、大体この二種類でな。
    ゲンジボタルの成虫が出るのは、五月から六月、
    遅くて七月上旬にかけてだから。
    そうすると、八月のこの時期に出るのは、
    ほぼ年がら年中見られるヘイケボタルってことになる」

    Kは本当に昆虫に詳しいらしい。

    こういう風に、
    なるほどと思える話をKから説明されることは珍しいので、
    何だか違和感を覚える。

    いつもならそういう解説はSの役目なのだけれど、
    彼はさっきからつまみも挟まず静かに飲んでいる。

    「でもヘイケボタルってのは、集団発生はしねーんだよ。
    年がら年中見れるってこたぁ、
    成虫になる時期が同時でないってことだ。
    逆に、皆そろって成虫になるのは、ゲンジボタルの方なんだけどよ。
    でも、ゲンジはこの時期にゃあ交尾終えて死んでるし」

    酔った頭でも何となく理解出来た。

    つまり、Kはこう言いたいのだ。

    「……つまり、大量発生するその光は、
    ホタルじゃないかもしれない、ってこと?」

    「おうおうおう!
    何だ、察しがいいじゃねーか。……
    ま、普通に異常発生したヘイケボタルっつう可能性の方が高ぇだろうけどよ」

    「蛍じゃなかったら、なんなのさ」

    「シラネーよ。見たことねえし。
    でもまあ強いていやぁ、そうだな。
    ……鬼火とか、人魂とか、怪火の類?」

    「……今年も見れると思ってるんじゃない?」

    「シラネーシラネー」

    そう言ってKは「うはは」と笑った。

    またオカルト絡みか。

    今日はただ蛍を見に来ただけだと思っていたのに。

    蓋を開けてみれば、
    やっぱりKはKだったということなのだろうか。

    その時、
    今までずっと沈黙を守っていたSが、
    ふと口を開いた。

    「出てきたぞ」

    その言葉に、
    僕はハッとして川の方を見やった。

    何も見えない。

    じっと目を凝らす。

    ちらと、
    青い火の粉のような何かが視界の隅に映った。

    それを区切りに、
    河原に無数の青白い光が浮かび上がる。

    突然、辺りがさらに暗くなった。

    KかSのどちらかが、

    テント前のガスランタンの光を消したからだろう。

    おかげで目の前の光がよりはっきりと見えるようになった。

    光は明滅していた。

    それも飛び交う全ての光が同じタイミングで消えては光る。

    それはまるで、
    無数の光全体が一つの生き物のように思えた。

    時間の経過とともに、
    光は更に数を増していった。

    河原を覆い尽くすかのように、
    僕らの周りにも。

    思考も感覚もどこかへ行ってしまい、
    目だけがその光を追っていた。

    度の強いウィスキーのせいで幻覚を見ているんじゃないかと疑う。

    それほど幻想的な光景だった。

    雲に隠れた星がここまで降りてきたかのような、
    そんな錯覚さえ抱く。

    「もの思へば、沢の蛍もわが身より、
    あくがれ出づる、魂かとぞ見る……」

    ふと、我に返る。Sの声だった。

    「……何それ?」
    と僕が訊くと、
    「和泉式部」とSは言った。

    「誰それ」とさらに尋ねると、
    溜息が返って来た。

    「お前、文系だろうが」

    それから数時間もの間。

    僕らはただ、目の前の星空を眺め続けた。

    飽きるという言葉すら浮かばなかった。

    時間はあっという間に過ぎた。

    その内に少しずつ数が減ってきて、
    時刻が夜十時を過ぎた頃、光は完全に沈黙した。

    Kがいったん消した焚き火を組み直し、
    火をつける。

    つい先ほど見ていた光とはまた別の火の光。

    ぱちぱちと薪が燃えて弾ける音がする。

    「昔の人は、人間に魂があるとすれば、
    それは火の光や蛍の光のようなものだと考えたんだが……。
    今のを見れば、まあ分からなくもないな」

    手の中で空の紙コップを弄びながら、
    Sがぽつりと言った。

    あの数は大量発生と言えるのだろうか。

    だとすれば、
    今年も誰かが川で溺れて亡くなったのだろうか。

    感動と共に、僅かな疑問が頭をよぎる。

    「……あ、そう言えばKって、
    虫取り網持ってきてたよね。
    使わんかったん?」

    と僕はKに尋ねる。

    おそらくは、
    あの光が人魂か虫かを確かめるためには、
    捕まえるのが一番手っ取り早いということで持ってきたのだろう。

    「ああ、忘れてたな……。ま、いいや。
    ありゃ人魂とかじゃねえよ。蛍だ。
    集団同期明滅してたし」

    蛍だった、とKは言いきった。

    「ああ、あの同時に消えたり光ったりしてたやつ?」

    「そ。ありゃ蛍の習性だからな。
    ああやって、同時に光ることで雄と雌を見分けてんだよ」

    「ふーん」

    「……あーあ、でも俺ぁてっきり、
    今までに死んだ水死者の魂が、
    飛び交ってんだと思ってたんだけどなあ」

    ただ、そういうKの顔に落胆の色はなかった。

    あれだけのものを見たのだ。

    満足しない方がおかしい。

    僕たちはそれから焚き火を囲んで少し話をして、
    三人でウィスキーを二本ともう半分開けてから、
    寝ることにした。

    興奮はしてたものの相当酔っていたので、
    熱帯夜にもかかわらず、
    すぐに眠りにつくことが出来た。

    次の日の朝。

    起きると、
    テントの中に残っているのは僕が最後だった。

    外に出ると、Sは河原の石に座って釣りを、
    Kは底が硝子になっているバケツを川に浮かべ、
    網を持って何かを探していた。

    その日は、
    すっきりと雲ひとつない天気だった。

    川の水で顔を洗ってから、
    釣りをしているSの元へと行ってみた。

    「釣竿なんか持ってきてたっけ?」

    と僕が尋ねると、

    「昨日、そこの茂みで拾った」

    と言う。

    じゃあ餌は何を使っているのかと聞けば、
    昨日の内にテジロちゃんを捕まえておいたので、
    それを使っているらしい。

    見せてもらうと、
    テジロは本当に手の先が白かった。

    ちなみにSはこの後、
    立派な岩魚を二匹釣るという快挙を成し遂げた。

    塩焼きにして昼飯になったのだけれど、
    すごくおいしかった。

    Kの元へ行くと、
    彼はゴリという名の小魚を捕まえようとしているらしい。

    ちなみに彼はこの後ゴリを十匹ほど捕まえ、
    それは昼飯の味噌汁の具になるのだけど、
    ゴリは骨ばっててとても不味かった。

    二人共元気なことだ。などと思いながら、
    僕は河原を行ける所まで散歩していた。

    その時、ふと足元に黒い昆虫の死骸が落ちていることに気がついた。

    十字の模様がついた赤い兜に、黒い甲冑。

    拾い上げてみると、
    それは一匹の蛍の死骸だった。

    そのまま持ち帰ってKに見せてみた。

    「おう。蛍だな」

    ちらりと見やりそれだけ言うと、
    Kはまた腰をかがめて水中に意識を戻した、かと思うと、
    がばと起き上がり僕の腕を掴み、
    もう一度その蛍の死骸を見やった。

    「ゲンジボタルじゃん……」

    とKは呟いた。

    「ゲンジボタルなん、これ?」

    「ああ、頭のところに十字の模様があるだろ。
    てっきりヘイケボタルかと思ってたけど。
    ……でも、何でこんな時期に出て来てんだコイツ。
    一、二月くらいおせぇのに」

    僕はもう一度、
    自分の手の中のゲンジボタルの死骸を見つめた。

    Kは「おっかしいな~」などと言いつつ、
    ズボンから携帯を取り出すと、何かを調べ始めた。

    おそらくインターネットで、
    ゲンジボタルの生態でも確認しているのだろう。

    「……あ?」

    しばらくして、Kが妙な声を上げた。

    携帯の画面をじっと見つめている。

    「……どしたん?
    八月でも出ますよってあった?」

    「いや、そうじゃねえけど。
    いや、これは俺も知らんかったわ」

    「だから何が」

    Kは開いた携帯の画面を僕に見せながら言った。

    「ゲンジボタルの学名だ。
    ……『Luciola cruciata』
    ラテン語で、『光る十字架』だとよ」

    頭部の辺りに見える黒い十字が見えるけれど、
    これが十字架なのだろうか。

    「……何を祝福してんのか知らんけど、
    溺れた奴が全員キリスト教でもねえだろうにな」

    そう言ってKは「はは」と小さく笑った。

    光る十字架。

    僕は昨夜の光を思い出す。

    ゲンジボタルが光る時期より一、二ヶ月遅れたこの季節は、
    子供たちが川で遊ぶ季節だ。

    そうして人が溺れて死んだ年だけ、
    光る十字架たちは飛び回る。

    全くの無関係なのだろうか、それとも。

    ふと、昨夜Sが口ずさんだ歌を思い出す。

    あの後、Sにあれはどういう意味かと訊くと、
    彼は面倒臭そうにこう言った。

    『恋心に沈む自分の魂を、蛍にたとえた歌だ』

    昔から、人は人間の魂を蛍の光に例える。

    僕は首を振った。

    僕には何も分からない。

    昼食が終わった後、
    僕らはテントを片付けて荷物を車に運び込んだ。

    出発する前にKが「ちょっと待ってくれ」と言い、
    半分残ったウィスキーの瓶を持って、
    吊り橋の上へと向かった。

    何をするのかと見ていると、
    Kは橋の上からウィスキーの瓶をひっくり返し、
    残っていた液体を全て川へと振りかけていた。

    「よ、待たせたな」

    戻って来たKに、
    何をしていたのか尋ねようかとも思ったけれど、
    止めておいた。

    Kは何も言わなかった。

    だったら、こっちから聞く必要もないだろう。

    車のエンジンがかかり、
    僕らは川を後にする。

    「いやぁ、でも、良いもの見たしね。楽しかった」

    走り始めた車内で、
    僕は本心を言った。

    「そうだな」と珍しくSも肯定してくれたので、
    「また機会があれば、行こうよ」と二人に提案してみる。

    「おう、そうか。だったら、次は山だな」とKが言う。

    「かなり遠いけどな。
    昔人喰いクマが出て有名になった山があってな」

    いやそれはちょっと勘弁してくれ、と僕は思った。

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