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怪物になった彼
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長編11分
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私が彼と出会ったのは、進級して小学三年生にあがった時だった。あやとりがうまく、折り紙も上手で、音楽が好きで、歌も音楽教師を惚れ惚れさせるような少年だった。ただ、首から下に麻痺を患っていて、身体を自由にうごかせないらしく、楽器は口笛しかできなかった。でもその口笛は切ない音色で、楽器を引きたくても自在にひけない哀愁を漂わせていた。私が彼についてまっさきに思い出すのは、美化されたこうした思い出だ。以下の内容は、本当は語るべきでないけれど、胸に閉まっておくには重過ぎるので聞いて下さい。彼は哀れな人だった。 彼はその不遇な身体のハンディをクラスメイトにあざ笑われ、活発に活動できない体のため、男子同士との友好も暖められず。喧嘩をしても真っ向からぶつかりあえない為、怪我をする前に自分が正しくとも謝る、という事ばかり学ばざるをえなかった。だからだろうか、彼は気弱になっていってしまった。小学五年の頃、四年からかわっていた教師が彼をいじめだした。教師は娘の離婚で気が立っていて、彼を事あるごとに殴り、時に首を絞め。張り倒した拍子に頭をぶつけて出血する、なんていうこともあった。彼へのイジメが、クラスメイト達からの暴力にまで波及し、彼が暴力をふるわれた夜には、私はママに泣きついた。一年間もこういう生活を続けさせられた彼は狂った。彼に向けられた悪意は、彼の中で蓄積していたんだろう。小学生六年の時に彼は復讐をはじめた。まず、自分をいじめていたクラスメイト達に意図的に近づき、「ゲームを貸してくれたら一日千円払う」と言い出した。私は偶然それを立ち聞きして、彼はお金で歓心を買おうとしだしたんだと思った。それでイジメがやむならいいと思った。でも、ママには相談した。そうしたらママは怖い顔をして、「けっしてその話は誰にもしてはだめ」といった。多分ママには、そのときには私の大好きだった彼はもういなくて、悪意の塊で人間を信じずに憎む怪物になったことを、察知していたんだろう。事実、彼は怪物だった。イジメっ子達は、小学生でありながら学友を恐喝した事を公にされ、立場を失った。彼のイジメられっ子という立場は、そのあまりに常軌を逸した事態に消えてなくなり、哀れな被害者という立場になった。彼へのイジメはやんだ。彼はいった。「あいつら嘘を言ってるんだ。ゲーム一本借りるのに千円なんて払えないよ。第一、『千円払う』なんていってたら、一ヶ月以上も借りたりしないよ。あいつら僕をなぐっていったんだ。『四万円もってこなかったらもっとひどいぞ』って」彼の嘘には真実味があった。なぜなら、彼は勉強はよくできたから、賢い子であるというのは学校の認識だった。そういって胸をはだける彼の腹部やわき腹には、青あざがいくつもあった事が、決定的な証拠となった。それは教師含め、彼をつい先日までいじめていたもの達がつけたものだった。だからこそ悪魔の論理は、大人も子供も、真実を知っている私とママ以外は信じる事となった。でも、もう遅すぎた。加害者はやってはいけない事をした。私が彼に恋したのは、地面を這う蟻ですらも踏んではかわいそうと下をみて歩く、そういう純粋な優しさが、クラスどころか学年に一人位しかいなかったところだ。でも彼は、以後下をみて歩かなくなった。彼は蟻を何匹踏み殺したろう。私は、真実を語るべきではないかとママに相談した。しかし、けっしてしゃべっては駄目だとママは言った。今は私も理解できる。一度壊された人間の心は、もう元には戻らない。あれほど優しかった彼が、こうならざるをえなかったからには、彼には復讐を遂げる権利はある。ただ、ママの考えは多分私とは違ったのだろう。その後そのイジメッ子達は、小学校の頃の悪行を理由に、エスカレーター式の母校を相次いで退学になったが、それは彼の責任ではないと思っている。なぜなら、掘り返される理由は他でもない本人が(正確にはそうともいいきれないが)作り出していたし、それに彼の嘘は、彼が心身に受けた傷の万分の一にもならないと、私は今でも思ってる。けれども、最後の一人が高校一年の頃、煙草所持一回で(普通は、一度目は有限停学、二度目は無期停学(復学あり)、三度目で退学)退学となった時。退学処分を言い渡されるだけのために、親とともに学校にきていた様子を、遠巻きに観察していた彼の表情は忘れない。歯をむき出して、目を爛々と輝かせ、嘲りの笑みは、まさしく悪魔そのものだった。ここまで書くと、私の事をストーカーだと思うだろう。そう、私はストーカー。思いを告げようと思った相手が殺されて、中身が別のバケモノになって、それでも元に戻らないかと、初恋をそのときまでずっとひきずっていた。でもあの表情を見たとき、それは土台無理なんだと悟った。一週間学校を休んで毎日泣き腫らした。ママは、小学生の頃のように私を慰めてくれた。彼は役目を終えたというように、高校二年の頃から成績を維持する努力を放棄し、大学への進学は諦めた。私が彼と再会したのは、大学を卒業し、家族を持った後。元担任の家でおこなわれた、小学校の同窓会に出た時だ。私が出席していたのは、彼の復讐がまだ終わっていないと思ったからだ。だから、それまでの同窓会も毎回出席していた。そして、軽く飲んだ酒で酔ってしまい、担任の家の庭で酔いを醒ましている時、彼の姿が目に入った。剣道の防具をいれる長い袋を背負っていた。彼は凄く上機嫌で口笛を吹いていた。曲は賛美歌第ニ編191番だった。私が中学高校と所属していた聖歌隊で、よく歌っていた曲だった。彼は庭に入ってくると、私の目の前で長い袋の紐をといた。そして私を見るなりにっこり笑い、「よかった」と私に告げた。刀の柄が袋の端からのぞいた。どういうことかと聞いた。「君のママが、僕のママに全部話してたんだ。君が凄く心配してたよって、桃組の頃から」桃組というのは、小学校4、5、6のクラスだ。「でも、ごめんね。ずっと待ってたんだ。あいつらが全員、立派に大人になるのを。それを見て喜ぶあいつの目の前で全員殺して、それからあいつの節々一本づつ切り落とす。君にだけは見られたくないから、帰って」彼はうつむいて涙を流した。「よかった。君をどうやって外に連れ出そうか、困ってたんだ。やだやだやだやだ見られたくない」膝が震えて、その場に私は崩れ落ちた。彼は一部だけ正気をもっていたんだと、この時気づいた。私に今のような自分の姿を見られるのを恥じている彼は、自分の罪深さを理解していた。それでもやめられないから苦しいんだろう。彼の渋面は、間違いなく苦悩をかかえた人間のものだった。防具袋を下ろした彼がその紐を解くと、短刀の柄も沢山みえてきた。彼は私以外、あの時のクラスメイトと担任全員殺すつもりとしか思えない。「なんでそんなに」と聞いた。担任ならわかるけど。「あいつらいきなり僕に味方したろ。許せない。それまで笑ってみてたくせに」彼の想いは理解できた。でも、彼がやろうとしている事は、あまりに凄惨でいけないことだ。私は竦んで硬直した身を奮い起こして立ち上がり、とおせんぼした。彼は寂しそうにうつむき、私をおしのけようとした。彼のハンディキャップを考えれば、信じられないほどの力だった。並の成人男性が本気でどのくらいの力がでるのか、味わった事はないが、多分それ以上にはあったんじゃなかろうか。「私が全部払ってあげるから、やめて」私は思わずそういった。「なんで?君を殺す理由ないよ。愛してるんだ」狂人の口から『愛してる』なんて言葉をきくとは思わなかった。でも彼にとっては、小学生の頃に勇気が出せなかった唯一の味方でも、たった一人の大事な想い人になりえたのだろう。「私、結婚してる。でも〇〇君のなら、子供を産んであげる。あなたの大切な子供を、あなたの分まで幸せにしてみせるから」愛してると言う言葉が本当ならと、私はこの言葉にかけた。彼は両手で自分の頭をがんがん叩きはじめた。それから頬に爪をたててざりりと嫌な音を立て、爪が皮膚にもぐりこみ、血が伝いだした。「変だな。起きない」彼の異常が目立ちだした。まるで子供のような直情な仕草だ。「もう休んでもいいじゃない。私が働いてあげるから、主夫になってよ。ね?」思いつく限りの言葉を並べ立てて気をひこうとする。とうとう彼は刀を抜き。尖端を自分太股にぐさりとつきたてて、「おっかしいなあ」と言い出した。小さな頃の、ハンディキャップをせおって身体を満足に動かせなかった彼は、そこにいなかった。心の中に生まれた憎悪の炎。たぶんそれをずっと燃やし続けて、他の人より何百倍も努力したのに違いない。人を殺すのに十分、彼は刀を扱えていた。あまりに哀れである。こんなになるまで、誰一人彼にイジメたことを謝らなかったのだ。復讐されるその寸前まで、そして今も、私の後ろの建物の中で、自分は善良な市民を装っていたのだ。生徒をやつあたりで負傷させ、イジメたその教師との歓談に耽りながら。思わずかけよって刀を抜かせると、流れた血がズボンに染みてゆくのを必死に手で押さえた。「離婚して、あなたと再婚する」「俺にもわかる。おまえがかわいそうだ」口調がまったくかわって、一人称もかわった。円らな目が細く鋭い輝きを放って、声も低く、唸るような響きを持った。これが多分、あの嘲りをやってのけた、彼の異常そのものだと瞬間的に理解した。彼の壊れ方は、一般的にいえば、二重人格として知られるものだったようだ。だとしたら、外部の脅威に対抗するために作り出された人格は、凶悪であるはず。そうあるべき、凶悪としか思えない彼の目から、粒の涙がこぼれた。そのまま泣き崩れると、彼は号泣した。皆がその声を聞いて驚いて出てくる前に、私は彼の荷物をもとどおりにまとめて、彼をつれて実家に向かった。私がこの話をせざるを得ない理由は、私も辛いからだ。私は不倫し、そして縋る夫を捨てて、他の男と同棲を続けているアバズレと見られている。まだ離婚は成立していない。事情を知らない者達からみれば、私が悪いとしか思えないのあたりまえの事だ。しかし、本当のアバズレは私のママだ。彼女は担任の娘婿とW不倫し、担任が狂うきっかけをつくった。彼女の父、私の祖父が途方も無い大金持ちだったから、担任は声高に非難して職を失うか、黙って先生を続けるかを選ばされたらしい。このことは、ママが私の大学時代にまた不倫をして、その前のものと合わせてパパから語られた。ママの罪が担任を狂わせ、担任の罪がクラスメイトを狂わせ、そして最後に、その全ての狂気を彼一人が、まるで帳尻あわせのように背負わされた。
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