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オチャカナ
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もうかなり昔のことになるので、思い出しながら書いていきたいと思います。この歳になってあらためてそのことを考えますと、経験した自分自身でもとても現実と思えない内容なので、記憶だけでなく、その後に見た悪夢などが入り混じっているのでしょう。正直に申しますと、悪夢にうなされた記憶など全く無いのですが、あれはそういうことだったのだと考えるようにしています。あれは三十年くらい前、当時私は中学生で、まだ猟師を生業にする人たちも若干残っていた頃の話です。私の祖父には狩猟の趣味があり、愛犬2頭を連れてよく狩りに行っていたものでした。 一匹は雪のように白く、もう一匹は墨のように黒い犬で、犬達の名前は外見そのままシロとクロといいました。祖父自慢の賢い犬達で、私ともすぐ仲が良くなったことを覚えています。雪の無い季節には私を連れ立って行くこともありました。狩りへついて行くことに対して、両親は余り良い顔をしていなかったようですが、私にとっては楽しみのひとつでした。体力的に無理をした覚えも無いので、私がいるときは、それほど奥深くまで行かないようにしていたのだと思います。誤射を避けるためでしょう、散弾は使わず、山に入る時には常に自分の傍にいるよう、私に厳しく言い聞かせていました。傍にいないときには、決して発砲しなかったとも記憶しています。その日は祖父にしては珍しく、夕刻になってもまだ一匹の獲物も仕留めることが出来ずにいました。帰る時間も近づき焦りが出てきたのか、そのときは「どうもおかしい……」とか、「どうなっているんだ」といったことを、しきりにつぶやいていたと思います。今思えば、祖父は長年の経験から、山の様子などにいつもと違う、なにか変化のようなものを感じ取っていたのかも知れません。あれを見たのはそんな時でした。「なんだ?あれは」怪訝そうな祖父の視線を追ってみると、岩場と木立の境界あたりに動物がいて、魚を食べているようでした。「猿……か?」言われてみると確かに猿にも似ているのですが、私には猿には見えませんでした。大きさは猿と同じくらいですし、目の大きい『アイアイ』という猿に似た印象ではあるのですが、もっとなんというか、ヌメッとしているような嫌な質感をしていて、うまく説明できないのですが、明らかに違う生き物でした。この後に起きたことを思い出させるような動物は、図鑑の写真を見るのも嫌なので、どの辺りが似ているとか似ていないとか、細かく指摘することはしたくありません。とにかくあれは、得体の知れない生き物でした。「見たことのないやつだが、とにかく仕留めてみるか」祖父は私に耳を塞ぐよう合図すると、すばやく猟銃を構え発砲しました。生き物は岩の向こうに倒れこみ、祖父も手ごたえを感じていたようです。これは仕留めたと思った瞬間、茂みがガサガサと揺れ、取り逃がしたことが解りました。追いかけた犬達もそれほど経たずに戻ってきてしまい、申し訳なさそうにしていました。あの生き物がいた辺りに行くと、まだ食べられていなかったヤマメが数匹、岩の上に残っていました。「今夜のおかずだな」祖父は魚を集めて喜んでいました。そうこうしているうちに夕闇が迫って来たため、近くにあるという、祖父の知り合いの狩猟小屋へと向かうことになりました。そこは狩猟で泊り込む為に用意したもので、基本的に最低限の炊事と寝泊りをするだけの、簡素な作りの小屋でした。「美味いぞ?」祖父からは焼き魚を食べるよう何度か薦められましたが、あの生き物が触れていたかと思うとどうにも気味が悪かったので、私は魚に手を付けませんでした。それほど数があったわけでもないので、魚は祖父と犬とでペロリと平らげてしまいました。その晩のことです。夜になり、なかなか私が寝付けずにいると、「……ナ」外からなにか声がするのです。最初は空耳だろうと思い、それほど気にも留めずにいました。しかし、片言というか、ボソボソと不鮮明で聞き取りにくいのですが、「オチャカナ、オチャカナ」と言っているように聞こえます。そのうち、壁の向こうでカリカリと引っかくような物音がして、その音は次第に上へと、屋根まで移動したように思われました。『なにかがいる』そして気が付くと、窓の隅から丸く光る目が見下ろしていたのです。暗くてよく見えなかったにも関わらず、直感的に『あ!あの生き物だ』と思った瞬間、今度ははっきりと、「オチャカナ、オチャカナ。ワタチノオチャカナヲカエチテオクレ……」「わぁあああああああっ!」思わず私は叫んでいました。悲鳴に驚いた祖父が駆けつけましたが、もうあの生き物の姿はありません。流石に祖父もすぐには信じてはくれず、最初の内は怖い夢でも見たのだろうと笑っていたのですが、私の怯えかたが尋常でないことを察し、真面目に聞いてくれるようになりました。 祖父に話すだけ話すと、平常心を取り戻すことが出来ました。落ち着きを取り戻してみると、他の生き物が人の言葉を話すなど考えられないことですし、やはり悪夢だったのだろうということで、その場は納得しました。それでも私の心細そうにしている様子を見て、祖父は添い寝してくれました。祖父が寝付いた後も私は寝つくことができず、悶々としていました。そうしているうちに、またあの気配を感じ、祖父を揺り起こしました。「オチャカナ、オチャカナ。ワタチノオチャカナヲカエチテオクレ……」今度は祖父もあの声を聞いたようでした。祖父はよほど肝が座っていたのか、孫の前で臆するわけにはいかないと思ったのか、「もう無いわっ!わしと犬とで食ってしまったわい!」と怒鳴りつけると、銃に弾を込め始め、外へ出て撃ち殺そうとしました。暗いこともあってか銃は当たらなかったようでしたが、追い払うことは出来ました。「いけっ!」森に逃げ込んだ生き物に向けて、祖父はシロとクロをけしかけました。犬達は吠え立てながら木立の奥へ走りこんで行き、その鳴き声は次第に遠のいていきました。「わしもこの山を歩いて何十年にもなるが、あんなのは初めてだ」銃に弾を篭め直しながら、祖父は首を傾げていました。「また戻ってくるようなら今度こそ仕留めてやる」そう祖父が言った時です。入り口の方でなにか物音がしたようでした。祖父と共に様子を見に行くと、小屋の前に腹を割かれた犬が転がっていました。正面の森の暗い闇の中では、ふたつの丸い目が光っていました。「オチャカナ、オチャカナ。ワタチノオチャカナヲカエチテオクレ……」そのときの私は恐怖で頭が真っ白になり、声も出せずに震えていたと思います。「おのれ」大事な犬を殺された怒りが勝ったのでしょう。祖父は猟銃を持って飛び出していきました。夜の森に2回ほど銃声が響き渡ったあと、しばらく何も音がしなくなりました。そして唐突に、森の奥から今も忘れられないあの声が聞こえたのです。「オチャカナ!オチャカナ!」今までと違う、興奮して叫んでいるような響きでした。その後のことはあまりはっきりとは覚えていません。子供心に、あの頼もしい祖父も、犬達と同様に死んでしまったのだと悟りました。恐怖のあまりわけが解らなくなって、走り続け、いつしか山道を転落して気を失ってしまったようなのです。運良く狩猟に来ていた猟師に助けられ、私が次に気が付いたときは病院のベッドの中でした。あの出来事を必死で大人たちに説明しましたが、まともに取り合ってもらえるはずも無く、何かの恐怖がもとで現実と幻覚の区別がつかなくなった、というような診断結果を受けました。そのためしばらくは入院して過ごす羽目になりましたが、そのせいで祖父の葬式にも出ることが叶わなかったのは、なによりも悲しいことでした。祖父の死も最終的には、クマかなにかの獣に襲われた、ということで片付けられてしまいました。信じてもらえないことが解ったので、そのうち他人にはこのことを話さなくなり、自分でも夢だと思うようにしてきました。ですが、あの恐ろしい出来事が夢だったとして、いったいどこからが夢なのか、何度思い返しても未だに解らないのです。母が祖父の葬式について聞かせてくれたことがあったのですが、祖父の知り合いの猟師さんが、「あれはクマの仕業なんかじゃねぇ」と言っていたそうです。私は川魚を一切食べることができません。犬の無残な姿を思い出してしまい、今でも胃が受けつけないのです。
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