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彼
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これからお話ししますのは、 私が約一週間に渡って体験した出来事です。 最初に断っておきますが、 種明かしのようなものも落ちに当たるものもありません。 ただ私が体験した事実のみですから、 人によっては全く怖くないと思うこともあるでしょう。 しかしながら 今までこの話を多くの方にお話ししてきたところ、 数名の方が 「それ以上その話を続けないで下さい」 と途中で遮ってしまわれました。 一体どういう理由かと尋ねてみても 「もう聞きたくないのです」 とおっしゃるばかりです。 よくはわかりませんが、 もしかするとあまり良くない話なのかもしれません。 そういう訳ですから、 人によっては全く恐ろしくもない話なのですが、 もし途中で 「続きを知りたくない」 と思われましたら 迷わず読み飛ばしていただきたいのです。 前置きが長くなって申し訳ありません。 ここから本題に参りたいと思います。 あれは私が高校二年生の秋、 十月の終わりの頃でした。 その日いつものように部活を終えて 友人達と帰り支度をしていた私は、 薄暗い校庭の隅、 裏門のすぐ近くに立つ人影に気が付きました。 距離はそう遠くはありませんでしたが、 日もほとんど落ちかけているのに加え、 私は視力がそう良いほうではありませんでしたので、 その人物の人相などはよくわかりませんでしたが、 男性であることが見てとれました。 校庭にはまだ部活中の生徒もおり、 そこそこに人のあるその場所で、 なぜ彼が目に留まったのかというと、 彼が制服、正しく言えば学ランを着用していたからです。 申し上げるのが遅れましたが 私の通っていた高校は当時では珍しい私服校で、 中には制服風の装いをする者もおりましたが その全ては女子生徒で、 それも決まってブレザー風の装いでした。 さすがに私服校でセーラー服を着用するのには 勇気が要ったのでしょう。 しかし彼は男子生徒、 しかもセーラー服同様に注目を集める 学ランを着用していたのです。 自然目が向いてしまうのも仕方のないことです。 私は友人達に知らせるべく彼から目を離し、 次に振り向いたとき、 彼の姿はもうどこにもありませんでした。 友人達は、 他校の生徒がこちらの友人でも訪ねて来たのだろうと言い、 私もそれに納得しておりましたが、それから約一週間、 私は学校の至る所で『彼』の姿を見ることになるのです。 元来細かいことを気にしないたちの私ではありますが、 翌日、翌々日も見かけることになると さすがに不気味な気持ちになって参りました。 更に友人の誰一人として 『彼』の姿を確認できないというのも 私の恐怖心を煽りました。 授業中に、 水の抜かれた屋外プールの中に立っている 『彼』の姿を見たときには心底ぞっとしました。 救いは、 『彼』は学校以外の場所に 姿を見せることはないということと、 『彼』を見たからといって 特に何かあるわけではないということでした。 それでも不気味なことには変わりなく、 殊にそこに存在し得ない場所、 たとえば施錠された特別教室の中や封鎖されている屋上、 三階の窓の外などに『彼』の姿を見出だした際には、 危うく叫び出しそうになるのを必死に堪えました。 友人らに相談しようにも、 皆には『彼』の姿が見えないのですから 何とも説明のしようがありません。 下手をすれば 私の頭がおかしくなっているのだと 受け取られる可能性もあります。 恐怖心に苛まれつつも 変人だとか臆病者だと思われたくないという気持ちを捨てられない、 これは若さゆえの矜持でありましょう。 あいつは得体の知れないものに取りつかれていると言って 始終怯えているなどと笑われると恥ずかしいという 見栄が勝っていたのです。 ですから友人達には一切その話はしないようにして、 『彼』のことを気にしないよう努めました。 何せ『彼』は危害を加えることのない上に 学校でしか姿を見せないのですから、 一歩校外に出てしまえば もう恐ろしい思いをすることはありません。 元より楽天的な性格も手伝って、 無理矢理にではありますが、 表面上は平穏な日々を送っておりました。 そうして一週間が過ぎた頃、 ついに『彼』が学校外の場所に姿を現したのです。 それは部活を終えての帰宅途中、 電車を待つホームの上でした。 ふと向かいのホームに目を遣ると、 真正面に『彼』が立っているのです。 表情はわかりません。 気をつけの姿勢で 真っ直ぐにこちらを見ているようでした。 私もぼうっと『彼』を見ていました。 電車がホームに入って来るまでの間、 お互い身じろぎもせず視線を交わしていました。 どうやって電車に乗り込んだのかは覚えていません。 いつの間にか揺れる電車の中で しっかりと吊り革を掴んでおりました。 その手が次第に汗ばみ、 かたかたと震えだすのを抑えることができませんでした。 『彼』が校外に出て来てしまった。 しかも私の目の前に立ってじっと私を見つめていた。 あれは私を追い掛けて来たのだ。 きっと私は『彼』にとり殺される。 あまりの恐怖に吐き気がこみ上げてくるのを堪え、 何とか無事家に辿り着いたときには 恥も外聞も無くぼろぼろと泣き崩れてしまいました。 今考えてみればホームで見たのは 『彼』ではなかったのかもしれません。 あの駅を最寄りにしているのは 私の学校の生徒だけではありませんし、 他校の生徒を『彼』と見間違えてしまった可能性は 大いにあります。 しかし私には あれは間違いなく『彼』であったように思えるのです。 その理由として、 翌日から『彼』の姿を目にすることが 一切なくなったからです。 『彼』を駅で見た翌日、 楽天的な私とは言えど、 さすがに学校に行く気にはなりませんでした。 けれども事情を知らない母は 私を学校へ送り出そうとします。 頭痛がするとか吐き気がするとか ありきたりの言い訳を重ねてはみましたが、 仮病など通用するはずもなく、 私はさっさと送り出されてしまいました。 いっそ学校をさぼってしまおうかなどとも考えましたが どうせ『彼』は校外にも現れるのですから無駄なことです。 人でないもの相手に何をどうしようもないと肚をきめて、 ほとんどやけくそのような気持ちで登校しました。 ところがどこにも『彼』の姿がないのです。 それから三日ほどは 私も警戒心いっぱいに過ごしていたのですが、 一向に『彼』は現れません。 そうなると調子のいいもので、 この一週間くらいのことは夢でも見ていた気になり、 すっかり元気を取り戻した私は また以前のように気楽な高校生活を過ごしたのでした。 『彼』の話はこれで終わりです。 長い割にさして恐ろしくもない話で申し訳ありません。 『彼』が何者であったのか、 何故私の前だけに姿を現したのかはわかりません。 知る術もありません。 結局私には何の実害もなかったのですから。 ただひとつだけ、 関連があるかどうかはわかりませんが、 『彼』が姿を見せなくなった後に 妙なことがありました。 後と言いましても二ヶ月以上も後、 冬休みも過ぎて三学期始めのことです。 私のクラスメートのある男子生徒、 仮に杉田君としておきましょう、 その杉田君が退学したのです。 退学ごとき、とお思いでしょうが これがどうも妙で、 ある日突然彼は学校に登校しなくなり、 次の日には机が片付けられ、 杉田は退学したと一言告げられたのみで、 私達にとってはほとんど行方不明のような形で クラスから居なくなってしまいました。 学校に来なくなる前日まで 彼はいつものように明るく冗談を飛ばしておりましたし、 私自身杉田君と言葉を交わしもしましたが 別段変わった様子はありませんでした。 それが突然退学し、 しかも一切の連絡がつかなくなってしまったのです。 杉田君と親しい者の中には 心配して彼の家を訪ねて行った者もありましたが、 家には人の居る様子はあるものの、 呼び鈴を押しても何の反応も無かったということです。 暫くは嘘だとも本当だともつかない彼の噂が まことしやかに校内を飛び交っていましたが、 次第にそれも終息し、 杉田君のことは皆の記憶から薄れてゆきました。 実際、何らかの事情があって 突然の退学ということにならざるを得なかったのでしょうから、 いつまでも心ない噂話をするのに皆の気が咎めたのかもしれません。 しかし私には その噂話が今でも心に引っ掛かって仕方ないのです。 噂とはこのようなものでした。 杉田君の退学後、 彼と親しかった友人らが家を訪ねた ところが、 中からは人の声がするにも関わらず、 呼び鈴を鳴らしても一向に出て来る気配が無い。 どうにも埒があかないので 家の裏側に回って様子を窺うと、 窓には真っ黒いカーテンが引かれてあって 中の様子がさっぱりわからない。 皆がっかりしてもう帰ろうとなったところで その中の一人がふと気付いた。 おい、あれはカーテンではなく 学ランじゃないか、と。 杉田君の家の窓には なぜか何着もの学ランが カーテンのようにかけられていた… とこういうわけです。 あくまで噂話ですから 真偽の程はわかりません。 しかしその話を聞いたときの私の気持ちは 言わずともおわかりでしょう。 制服の『彼』は一体何ものであったのか。 『彼』と杉田君は関係あるのか。 何故私には何もなかったのか。 私が知らなかっただけで 杉田君にも『彼』が見えていたのか。 杉田君は一体どうしてしまったのか… いくら考えてみても何一つわからないままです。 私はといえば その後一度も『彼』を見ることなく現在に至ります。 しかし『彼』のことも杉田君のことも 一生忘れることはないでしょう。
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