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アーちゃん
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僕の町内には「アーちゃん」という人が住んでいた。 アーちゃんは年中、肌色の肌着と肌色のモモヒキを身に付け、 パンクしてホイールの歪んだ自転車で町を走り回る、 人畜無害の怪人だ。 年齢は僕が小学生のときで6、70歳くらい、 試合後のボクサーみたいな顔をしている。 いつも酔っ払っているみたいな動きと口調。 口癖は「ぼん、どこの子や」 (僕は実際、これ以外の台詞を聞いたことが無い)。 アーちゃんはその風貌からか、 僕らの恐怖と嘲笑の的だった。 まず音。 キーキー、ガタガタという自転車の音で、 僕らはアーちゃんの接近を知る。 僕らは何食わぬ顔で、 向こうからやってくるアーちゃんに近づく。 決まって自転車を止めるアーちゃん。 僕らの顔をほとんど閉じたまぶたで見渡す。 そしていつもの台詞。 「ぼん、どこの子や」。 笑ったら敗け。 そして全力でダッシュ。 大抵はみんなで爆笑しながら。 振り返ったことは無い。 アーちゃんはどんな顔をしていただろうか。 僕はアーちゃんのことを忘れていた。 昨日、僕と友人は美術館にいた。 ある作家の彫刻展だ。 友人は家具メーカーに勤める彫刻家の卵 (こういう言い方をすると友人は怒る)で、 僕は時々彼に誘われてこういうところに来るのだ。 友人とは幼馴染で、 幼い頃におばちゃんに●んこを揉まれるという 得難い思い出も共有している親友だ。 その友人と二人で美術館の駐車場で煙草を喫っていると、 ボロボロのおじいさんに話かけられた。 「兄ちゃん、煙草くれへんか」 おじいさんは僕の差し出したセブンスターを、 「ええ煙草や」 と言いながら実に美味そうに喫った。 別れ際、僕が10本ほど残ったセブンスターをあげると、 ボロボロのおじいさんは僕と友人に向かって言った。 「ぼん、どこの子や」 帰りの車中で友人とアーちゃんの話をした。 小学校での話。 一度アーちゃんのことが学校で問題になったことがある。 アーちゃんが何かしたわけではない。 「アーちゃん」という呼び方が問題になったのだ。 「アホのアーちゃん」。 アーちゃんのアーはアホのアーなのだ。 よそから引っ越してきた生徒の母親がPTAで騒いだらしい。 「ボクは別にいいと思うんやけどね」 と担任は前置きしてから言った。 ハゲた額に長髪、髭ボーボー。 父兄に人気は無かったが、 僕はこの担任が好きだった。 「一応議題に挙がってるし」 自宅で猫を14匹飼っている担任は、 アーちゃんを「本名」で「さん付け」で呼ぶように僕らに言った。 未来の彫刻家の卵が手を上げた。 「僕らアーちゃんの本名知りません」 猫のせいで近所とのトラブルが絶えず、 引越しを考えている担任は面倒くさそうに答えた。 「じゃあ調べといて」 家に帰り、僕はまず母親に聞いてみたが 「知りません」 となぜか怒られた。 隣のおばちゃんも知らなかったし、 嫌な顔をした。 おじいちゃんならと思い祖父に聞いてみたが、 「アホのアーちゃんや~」 とうれしそうに言うだけでやっぱり知らなかった。 「今考えるとさ」 友人は助手席で言った。 「名前が無いって凄いよな」 本当にそのとおりだ。 僕らはアーちゃんのことを何も知らなかった。 アーちゃんというあだ名と、 おそらくは根も葉もない数々の噂。 僕らのアーちゃんはそれだけでできていた。 アーちゃんはザリガニを採って食べる。 アーちゃんはカタツムリとか虫も食べる。 アーちゃんは野良犬や野良猫も食べる。 アーちゃんは野良猫、野良犬の駆除で市からお金を貰っている。 アーちゃんは昔、天才だった。 アーちゃんは腹が減ると飼い犬や飼い猫もさらって食べる。 アーちゃんは強姦魔。 アーちゃんには子供がいたが殺して食べた。 アーちゃんは本当は大富豪。 アーちゃんは…。 僕は友人と思い出せる限りのアーちゃんの噂を並べてみた。 今思えばただの笑い話だが、 これらの噂のいくつかを僕らは信じていたし、 これらの噂がアーちゃんへの恐怖の源だった。 そして普段のアーちゃんとのギャップが、 僕らにはどうしようもなく可笑しかった。 誓って言うが、アーちゃんは本当に人畜無害で、 少なくとも僕の知る限りアーちゃんが事件を起こしたことはない。 ただ僕と友人はこれらの噂の中でひとつだけ、 事実を確かめたことがある。 僕と友人が高校生の時のことだ。 そしてそれが 僕と友人の最後のアーちゃんの思い出だった。 友人は高校の時、町内のコンビニでアルバイトをしていた。 バイト中、たまにアーちゃんが来ることがあったそうだ。 アーちゃんは決まって大量の砂糖を買っていった。 多い時で5kg、少なくても3kg。 暇を持て余していた僕は 友人からこの話を聞いて、 アーちゃんを尾けようと提案した。 友人も乗り気で、 僕らは次の日学校を休んで近所をぶらついた。 アーちゃんはすぐに見つかった。 あの自転車に乗っている。 この時僕は、 自分がアーちゃんのことを忘れ始めていたことに気がついた。 「今思ったけど」 友人が言う。 「俺、アーちゃんの家知らんわ」 アーちゃんの家は町を流れるドブ川の上に建っていた。 地面に乗っているのは3分の1くらいで、 後は川にせり出している。 本当に、本当に小さな小屋だった。 アーちゃんは路上(といっても玄関を出てすぐ)で 七輪を使いザリガニを焼いていた。 老人が路地でザリガニを焼く。 シュールだった。 僕は何かあまり見てはいけないものを見た気がして、 「帰ろ」 と友人を促した。 その時アーちゃんがこちらを見た。 「ぼん、どこの子や」 僕と友人は走って逃げた。 いつもの台詞、いつものダッシュ。 ただ僕と友人はなぜか笑えなかった。 あたりにはザリガニの焼ける、 ドブ川のような匂いがしていた。 僕は二年ほど日本を離れていたことがある。 その間にアーちゃんは死んだそうだ。 アーちゃんは一人暮らしで身寄りも無く、 葬式も何もなかったらしい。 その時僕が近くにいたら、僕はどう思っただろうか。 子供の頃、 大人がアーちゃんの話をしたがらない理由はわからなかったし、 考えたこともなかった。 今ならわかる。 アーちゃんをドブ川の小屋に住ませ、 ザリガニを食べさせていたのは多分僕らだ。 誰かが僕にアーちゃんのことを聞いたとしたら、 あまりいい顔はできないだろう。 じゃあ、どうすればよかったのか、どうすればいいのか。 PTAの言うように「本名」に「さん」を付ければ それでよかったのだろうか。 「アーちゃんみたいなのは『アリ』やな」 と言って友人は車を降りた。 僕らは相変わらず脳が少し足りない。 僕はせめてアーちゃんのことをずっと憶えていようと思った。 車に残る懐かしさと罪悪感の中で、 僕はもう明日のバレンタインのことを考えている。
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