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階段の人
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わたしは個別指導塾の学生講師を勤めていました。 大学四年生だったわたしは、就職活動と論文の下書きが終了していた為、職場のかき入れ時となる夏から冬の間に、小学生四年生から中学三年生までの、計八人のお子さんの担当をしていました。 わたしは大学一年からそこでアルバイトを続けていたのですが、少し妙なことが起こり始めたのも、丁度最後の年のことです。 塾は、駅から数分歩いたところのビルの二階に入っていて、大通りに面したところのモダンな階段を登ると、自動ドアがある正面入り口に辿り着きます。普段は講師も生徒もそこから出入りをし、玄関で挨拶をすることが決まりとなっていました。 学習塾の中を突っ切って反対側に進むとドアがあり、トイレのある廊下に出ます。お手洗いの隣には、非常階段が設置されていて、裏通りから配達業者さんが登ってくるそこは、当時は生徒たちのたまり場になっていました。 お喋り好きな子やサボリ癖のある子たちがたむろする、非常口下を巡回するのは本来なら社員の先生の仕事です。わたしはバイトが長かったことと、体格の大きな方であった為、頻繁に注意をしに行かされていました。 九月の終わり頃でした。トイレの為に廊下に出ますと、下から話し声が聞こえます。 小学六年生の女の子達が携帯電話で遊ぶのが流行っていた時期でしたので、サボっていないで勉強するように階段を降りていくと、そこには誰もいませんでした。その時は特に気にせず、わたしは首を捻りながら塾の中に戻っていきました。 ところが巡回を行っていると、三回に一度は、そのようなことが起こりました。最初、何かビルの設計上の問題で、上の階の声が反響しているのだろうか。 他の塾の子どもがそこでお喋りでもしているのだろうかと考えたのですが、十一月も半ばになってくると、わたしはさすがにおかしいことに気づいてきたのです。 塾には個人スペースにハンガーが用意されていて、子どもたちはコートや上着が邪魔にならないようそこにかけるのです。 すこし厳しい個別塾でしたので、マフラーや防寒着をつけて授業を受けることは許されず、塾の中は少し熱いくらいの室度に設定されていました。その頃、女の子たちのグループはトイレで話の輪を作るようになり、女性の先生がよく注意に行かされていました。 気温が十度を下回るような気候が続く寒い時期に、煙草の火もつけられないような吹きさらしのところで上着もなしに長々とお喋りをする子どもはいません。そう思ったら、ぞぞぞ、と何か背中に冷たいものを感じてしまい、恐がりのわたしは声が聞こえてきても下に降りて行かなくなりました。 十二月に入り、子どもたちが本格的にピリピリし出すと、残業が増えました。事務給につられたせいもありますが、受験生にやらせる小テスト作りに取り組んでいたからです。 週に二度実施される社会と理科のテストを作っていますと、時計の針は夜の十時を越えます。生徒はもちろん講師は皆お帰りになり、社員の先生と二人、十一時を回るか回らないかという時間になって、一緒に塾に鍵をかけて帰ることもしばしばでした。 わたしは、本当は早く帰りたい気持ちでいっぱいでした。面倒だという理由の他に、非常階段がある廊下を目の前にしたブースで教材研究をしなければならなかったからです。 受付側にある講師室で、社員の先生とふたりで仕事が出来ればどれほど良かったことでしょう。でも、生徒にテストの内容がバレるという理由から、端っこに追いつめられて夕方から仕事をしていたわたしは、何だか怖いから夜は隣でやらせてくれとは、気恥ずかしくて言うことが出来なかったのです。 最初、それは夕の五時を過ぎた頃に始まります。階段を上ってくる音がまずして、降りて行くのが聞こえます。 子どもたちは、私の部屋の前を横切り、廊下のトイレに行くためにドアを出入りします。「黒猫のおじさん、今裏から上がってきた?」子どもたちは、必ず首を横に振りました。 わたしは、どうしてもトイレに行きたい時は、情けない話ですが男の子がやってきた時についていくだけになりました。それでも、夜の九時頃までは良いのです。 外にいる「ひと」は、相変わらず元気に上り降りしていますが、生徒や先生が大勢いるから、まだ塾の中は騒然としていて、怖がる余地がないほど活気があります。しかし、十時近くになって人がいなくなってくると堪りませんでした。 もしも教え子に受験生が六人もいなければ、集団授業のクラスなど持っていなければ、さっさと辞めてしまっていたかもしれません。その足音は、いつも一定の歩調を保っていました。 遅すぎもせず、早すぎもせず、機械的な調子で上がってきては、くるりとターンをして降りていきます。しばらくすると再び上がってきて、運動部のメニューのようです。 そのように、上がり降りの行為にはまるで意味がないようでした。それがわたしには逆に怖かったのですが。 わたしは、それが一体何であるかを、よく分かりませんでした。もしかしたら人間かもしれないし、人間ではないかもしれません。 とにかく、どちらにしても子どもに良くないものであったら困ります。わたしは一度、社員の先生に「変な人が上がってきているかもしれない」と相談をしました。 すると「裏は出入りが自由になってきているから、もしも何かあったら、毅然と追い返して下さい」と平気で凄い言葉を返され、わたしは今にも泣きそうな顔で頷きました。 階段の「ひと」は相変わらず足腰を鍛え続けていましたが、特に悪さもしない上に、特に対処も出来ないので、わたしも次第に足音に慣れてどうでもよくなってきました。 しかし十二月の終わり、冬期講習のまっただ中の夜、とうとうどうでもよくないことが起こりました。その日も、最後にわたしと社員の先生が一人塾の中に残って黙々と仕事をしていました。 テキストのコピーを切り貼りしていると、例の足音が上がってきました。わたしは、それが階段の上で止まったままであることに気づいて、視線を上げました。 銀のノブがついた鉄の扉の向こうで立ち止まっている誰かに、わたしは動けなくなりました。わたしは、後ろの端にいる社員の先生の方へと振り返りました。 すると、ドアをノックする音が目の前から聞こえ出しました。とんとんとん。 一定のリズムで、三度ドアはノックされました。わたしは、ブースの椅子から立ち上がって、後ずさりしました。 とんとんとんとん。ドアを叩く音がひとつ増えました。 わたしは「先生」と叫びました。受付の方から、答えるように、三台の卓上電話のベルが一斉に鳴り出しました。 ドアが、五つ叩かれました。それから、続けざまにトントントントントントントントンと止まらなくなりました。 「せんせい!」 わたしは迷路のような、ついたてに仕切られたブースの間を駆け抜けて、講師室に駆け込みました。それは、その中年の男の先生がちょうど電話を高く取り上げて、まるで投げつけるような渾身の力で受話器を叩き置いたところでした。 ガチャン!と激しい音で切ったと同時、電話は一斉に黙り込みました。それから、先生は腰を抜かしたわたしを無理矢理立たせ、腕を掴んで、引きずるように奧の廊下へと向かいました。 ノックをする音は、ドドドドドドドドドドドと大きなものになっていました。 「先生、こういうのは、毅然と追い返すと教えたでしょう」 その人は、生徒を怒鳴りつけるような大きな声で、「こんにちは!」とドアに向かって挨拶をしました。 「こんにちは!S個別指導塾U駅前校です、生徒さんのご父兄でなく、お子さんの相談以外で御用のない方はお帰り下さい!」 思い切り良くドアノブを捻り、大きく扉を外に開きました。廊下は闇の中に、非常口の緑がぼんやりと光っていました。 廊下には誰もいませんでした。 「これで来年も、安泰でしょう」 先生は、座り込んで耳を塞いでいるわたしに晴れやかに言いました。わたしは、それから二月まで塾に通いましたが、夜の残業はやめさせて貰いました。 その塾は、まだわたしの通勤途中の駅前にあります。
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