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黒い靄
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社会人になって1年ぐらい経ったころに 起きた心霊現象を語る。 俺は元々所謂“見える”人間だった。 高校・大学時代に 有り余った時間にかこつけて 心霊スポット巡りとか廃墟に突撃とか 頻繁に繰り返したりしていた。 それも社会人になり 東京の会社に就職する事が決まって、 きっぱりとそんな学生気分にケジメをつけて、 もっと他人と気軽に共有できる趣味でも持とうと思っていた。 早速東京の部屋を探しに 母親と一緒にあらかじめ目星をつけていた物件を 見てまわることになった。 その中でも23区内で月5万、 1Kの風呂トイレ別で築10年ちょっと、 更にはベランダ付のかなりの優良物件を見つけた。 他の候補もあったが、 不動産会社の人も 「これだけいい物件は 自分も中々お目にかかったことないですね」 と言ってた。 事故物件とかでもなさそうなんで、 母親も納得してその部屋を借りることに決め、 他の人にとられないうちにと契約を結んだ。 引越しも滞りなく終わり、 仕事が落ち着いてきた頃から 新しい趣味でも見つけようと 色々な事に手を出してみた。 その中で俺は 料理とカメラとギターに嵌っており、 学生時代の心霊体験とか その時は既に自分の中では 遥か過去の思い出となっていた。 その代わり、 色んな趣味に手を出しすぎた代償として 生活は本当にかつかつだった。 元々嵌った趣味のためなら 金を惜しまない主義だったので、 持ってたカードの限度額は 常に上限ぎりぎりまで使っているような有様だった。 勿論そんなこと両親には言えなかったけれど、 理由をつけては金を送ってもらったりもしていた。 そんな生活が続いて 1年ちょっと経った頃。 新入社員も入ってきて先輩になっても、 家計は火の車だった。 生活レベルは落としたくない、 でも金はない。 今から考えれば この頃もまだ学生気分と言うか 若いから何とかなるだろう、 と言った気持ちがあったんだと思う。 最後に心霊現象を体験してからは 2年以上経っていたと思うが それは突然やってきた。 深夜、おそらく2~3時ぐらいだとは思うが、 俺は急に目が覚めて 自分が金縛りにあっていることに気づいた。 金縛り自体は 正直嫌というほど経験してきたので、 抜け出し方のコツも掴んでいた。 大体寝不足とかで金縛りにあうときは どこか一点(腕とか頭とかどこでもいい)に力を入れて 思いっきり動かせば解放されることがほとんどだった。 しかし、金縛りの中でも 所謂霊的な事象が絡んでいる場合は 明確な解除方法なんてなかった。 死ぬほど怖い思いをして、 ヤバイと思った瞬間に解けるとか そういうこともよくあった。 今回の金縛りは 紛れもなく後者のものだった。 こういった場合にお約束で 首さえも動かす事ができなかったので、 目だけを動かして 後は耳から聞こえる音を頼りに 現状を把握しようと頑張っていたと思う。 そうすると、階段を上って 誰かが廊下を歩いてきている音が聞こえた。 いや、正確には 何かの気配が自分の部屋の扉の前までやってきている、 ということを直感的に感じていたんだと思う。 ここまできて俺は これが学生時代に散々嫌というほど経験してきた現象と 同類のものである気づいた。 幽霊とかお化けとかそういう類は もう卒業したんだよ、 マジで勘弁してくれ……とか考える暇もなく、 唐突にその気配が 乱暴に扉を開けようとしている音が聞こえてきた。 鍵のかかっているドアノブをやたらめったら回して、 俺は解けない金縛りの中で 心臓だけがばくばくと鼓動を早くするのを感じていた。 するとぴたり、とドアを開けようとする音が止み、 それと同時にその気配が玄関を入って 戸一枚隔てた俺の寝室の前にまでやってくるのを感じた。 そのとき唯一動かせる目を扉のほうへやると、 引き戸が5cmほど開いていることに気づいた。 正直オカルト大好きだった昔取った杵柄とかそんなものはなく、 ただ入ってくるなよ入ってくるなよ、 と叶いもしない祈りをしながらひたすら怯えてた。 そうしていつの間にか 引き戸から目を離せなくなっていた俺は、 何か人型の黒い靄のようなものが 扉を開けて入ってくるのを まともに見てしまった。 すーっと、 部屋に入ってきたそれは 俺の足元までやってきて、 そこで立ち止まった。 顔なんてわからないので 男か女かなんてものも全くわからなかったが、 そいつが俺の足元に立って こちらを見つめていることだけはわかった。 程なくしてその気配は ベランダのガラス戸がある方へ向かい、 そのまま外へ出て行ってしまった。 汗でびしょびしょになった身体を起こしながら、 俺はキッチンと寝室を隔てる引き戸を確認してみた。 その引き戸は 俺が最初に見たときと同じように、 5cmぐらいの隙間が開いているだけだった。 「心霊特番とかでもよくあるけど、 こういうちょっとした隙間から 幽霊が入ってくるとか定番だよなぁ」 とか思いながら、 実害がなかったこともあってか、 あっという間に余裕を取り戻して もう一度ベッドに潜り込んだ。 段々とさっきの出来事は夢かなんかだろうな、 と勝手に結論付けて眠りについた俺は、 その後またすぐに目を覚ますことになった。 状況は先ほどと同じ、 はっきりと何かの気配が階段を上って 廊下を歩いてくるのがわかる。 そしてドアノブを 乱暴に開けようとする音を聞くところまで同じ。 ここまでくると 正直夢であっても早く覚めてくれ という気持ちでいっぱいだった。 一瞬頭をよぎったのは、 今度も本当に実害がなく通り過ぎていくのか? ということだった。 こちらを見つめてくるだけで済むのか? 黒い靄の正体がはっきり見えたら? そんな俺の思考はそっちのけで、 謎の靄はやはり人型のまま寝室に入ってきた。 先程起きたときに開いていた5cm程の隙間は、 そのままにしておいたのか閉めたのか、 記憶ははっきりとしていなかったが、 金縛りの中で視線だけを巡らせた結果、 引き戸の隙間は前回と同じように開いたままだった。 部屋に侵入してきたそれは、 やはりベッドで寝ている俺の足元で歩みを止めた。 そしてそれから目を話せない俺は、 黒い靄のようなものが 前回よりもはっきりとした 人の形を取っていることに気づいた。 髪の長い女だ。 真っ黒な髪を腰ぐらいまで伸ばした女だが、 顔ははっきりとしない。 完全に怯えきった俺を見つめていた女は、 唐突に俺の足首を掴むと がくがくとベッドごと俺を揺さぶり始めた。 金……返せ、返せ、金……! はっきりとそんな言葉が聞こえたが、 正直その時は恐怖以外の感情なんて欠片もなく、 いい年して泣きそうになりながら 金縛りから逃れようと必死だった。 その時、不意に力が入り 物凄い勢いで上半身を起こすことができた。 ベッドから転がり落ち、 とにかくその女から逃げようと顔を上げた瞬間、 既に部屋には誰もいないことに気づいた。 ふと引き戸をみると、 やはり5cmほどの隙間が開いたまま。 俺は何度も戸を閉め、 隙間が開いていないことを確認し、 俺は再びベッドに潜り込もうとした。 しかし、 俺はその時に一瞬、 寒気のようなものを感じた。 もう一度部屋の中を見てみると、 ベランダへのガラス戸がわずかな隙間、 開いていた。 流石に戸締りを忘れた覚えのない俺は、 誇張でもなんでもなく 歯をがちがち鳴らしながら 布団を頭からかぶって寝てしまった。 結果としてその夜、 女が再び現れることはなかった。 朝、ベッドから起きようとしたときに、 足首を捻った様な痛みを感じたが、 特にアザやそういったものを確認することはできなかった。 ただ、俺の中で昨夜のことは夢とかではなく、 間違いなく現実に起きた現象だと言う確信だけは持っていた。 それからと言うものの、 俺は寝る前に寝室の戸が完全に閉まっていることを 必ず確認するようになった。 その時の俺が趣味や遊びに金を使って、 親から金を借りていたことに気づいたのは、 多分冷静になった翌日のことだったと思う。 生活状況を改め、 夢ではない心霊現象にあったことも段々と忘れ始めていた頃、 東京に遊びに来ていた両親・妹・叔母・従妹にこの話をした。 妹は 「何でお兄ちゃんそんなこと言うん!? いやや、叔母ちゃんらと一緒にホテル泊まる!」 とか駄々をこねてたが、 幽霊否定派の親父が一喝して 渋々俺の部屋に泊まることになった。 逆に従妹は昔からこういう話が好きだったこともあってか、 泊まりたい泊まりたいと 最後まで抵抗しながら 叔母に連れられて帰っていった。 親父は死体とかをよく見る職業についていたのだが 「何十年もこんな仕事してて 幽霊とか一度も見たことないわ。 心霊写真とかも何枚も見たけど 全然信じられへん」 と豪語していた。 その後、 正月に家に帰ったときに知ったことだが、 どうやら俺はその年、 厄年(しかも本厄)だったそうだ。 幽霊を見たことと関係があるのかは不明だが、 母親がえらくそのことを気にして 厄除けの御札を買ってくれた。 決められた方角に向けて玄関に貼らなければならないらしく、 家に帰って早速貼ったのだが、 1000円そこそこの御札でも 何かとてつもなく頼りになるように見えて仕方がなかったことを覚えている。 あれからずっと同じ部屋に住んでいるが、 再びでそういった心霊現象にあうことはなくなった。 今でもあの霊の正体はわからないが、 あれから生活に余裕ができるようになったのも事実だ。
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