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血雪
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全国的にずいぶん雪がふったね。おれの住んでいる田舎町(はっきり言ってド田舎)も、ふだんはあまり雪は降らないんだけど、今回はずいぶん降った。で、2年前の、同じように雪がひどく降ったときの話だ。その日、おれは2階の部屋で一人寝ていた。おれの家はショボい専業農家で、50代の親父と母ちゃんと、おれの3人暮らしだ。まだ明け方前だけど、下の階で親父がガダガタなにか音をたてて、玄関から出ていくのを、おれは布団のなかでうつらうつらしながら聞いていた。天気予報じゃ大雪になるって言ってたので、親父はビニールハウスが雪に潰されてないか心配で、まだまっ暗ななかを見にでかけたんだ。 都会のサラリーマンも大変なんだろうけど、こういうときは農家もけっこう大変なんだ。もっとも、おれの方はこのクソ寒いなかを付き合う気にはなれず、親父には悪いけど、そのままぬくぬく布団のなかで寝つづけてた。ところが、しばらくしたら、家の前へギシギシと早足で雪を踏む音が近づいてきて、玄関がガラっとあいたかと思うと、ドタバタと家に駆けあがる足音が続き、親父が電話で「…そう●●橋の上、救急車!若い女が首やら手首やら切って血まみれで…」と叫んでる。ただごとじゃないと思って、おれが下に降りて行くと、親父が血相かえて「橋のうえで女が首切って自殺しかけているから、すぐに戻るぞ」と言う。おれは慌ててスウェットの上からジャンパーを引っかぶり、長靴に足を突っ込むと、親父といっしょに、まだ真っ暗で雪の降りしきる表に出た。親父に、「要領を得ないので説明してくれ」と言うと、親父は歩きながら次のようなことを話してくれた。おれが思ったとおり、親父はビニールハウスを見にいくために家を出たそうだ。ビニールハウスは、おれの家の近所の、小川に毛の生えた程度の川にかかった、古いコンクリートの橋を渡った先にあるんだけど、この辺はド田舎なもんで、街灯は1キロに1本くらいしかなくて、夜は真っ暗闇に近いんだ。都会の人にはわからないかも知れないけど、ド田舎の夜の暗闇ってのは、ホントに凄いものなんだ。で、親父が橋の近くまできたとき、その辺に一本だけある街灯の薄暗い光のなかに、橋の上の欄干の脇で、誰かがうずくまっているのが見えたそうだ。近づくと、それはコートを着た長い髪の女だった。親父は、こんな時間にこんな所で何をしているのか、といぶかしんだが、女が苦しんでいるようなので、心配して「どうしたんですか?」と声をかけたそうだ。そのとき親父が女の足元をみると、雪のうえにヌラヌラしたどす黒い液体がひろがっているのが見えた。驚いた親父が女の前に屈みこむと、突然女は苦しそうな呻き声とともに顔をあげた。目をカッと見ひらいた女の顔は、口のまわりや首のまわりが血まみれで、右手に女物の剃刀がにぎられていたそうだ。女は苦しそうな呻き声をあげながら、その剃刀を血まみれの首にあてて、そしてそれを一気にグイッと引いた。湯気をたててどす黒い液体が噴きだし、女の胸元や足元の雪を染めていく。親父は息が止まりそうになりながらも、女から剃刀を奪い取り、それを川に投げ込んで、「馬鹿なことをするな」と怒鳴りつけて、急いで家まで救急車を呼びにもどってきた、という訳だ。だが、親父と二人で、闇の中を雪に足をとられながら橋にきてみると、街灯のうす暗い光のなかに、女の姿はなかった。親父は「おーい、どこにいるんだ」と女を呼んだが返事はなく、おれもあたりの闇を見まわしたが、人の気配はない。そして不思議なことに、女がうずくまっていたと言うあたりの雪には、親父の足跡しかなかった。「川だ」おれは女が川に飛び込んだんじゃないかと思い、雪に埋もれた土手の斜面をおりて探そうとした。だが、土手下は足元も見えないほどの暗闇につつまれていて、危険で降りられなかった。そうこうしているうちに、救急車が雪のなかをもがくように到着し、また、駐在所の警官も、原付バイクで転倒しそうになりながらやって来た。親父は警官に経緯を説明し、空もようやくしらみはじめたので、救急車の隊員も一緒に、周囲をさがしてみた。だが、周囲にも膝までの深さしかない川の橋の下にも、女の姿はなかった。女の足跡もなく、それどころか橋の上の雪には、わずかの血痕さえもなかった。夜が明けてからも、止む気配もない雪のなかを1時間ほどさがしてみたが、女がいた形跡はなに一つ見つけられなかった。らちがあかないので、救急車は来た道を戻り、親父は警官といっしょに駐在所へ行くことにした。書類をまとめるために、事情をあらためて聞かせてほしいとの事だった。おれは何ともいいがたい気分で、独り家へ戻った。家に帰ると、母ちゃんが台所で朝飯のし支度をしていた。体の芯まで冷えたおれは、すぐ炬燵にもぐりこみ、そのままの姿勢で先ほどまでの経過を母ちゃんに話した。母ちゃんは、「気味がわるいねえ」とか言いながら味噌汁つくっていたが、ふと、台所の窓から外を見ながら、「あれ、その女の人じゃないかね」とおれを呼んだ。おれは台所の窓に飛んでいったが、窓からみえるのは降りしきる雪ばかりだった。「私の見まちがいかねえ」とボヤく母ちゃんを尻目に、おれは再び炬燵に戻ろうとしたが、そのとき、炬燵が置いてある古い六畳間の窓の外から、ガラスに顔をちかづけて、こっちを見ている女と視線がばったり会ってしまった。女は細面の青白い顔で髪が長く、そして口のまわりと首のまわりにベッタリ血がついていた。おれは体が凍りつき、頭のなかが一瞬まっ白になったが、気がついたときには女の顔は消えていた。あわてて窓をあけて表を見たが、女の姿も、足跡もなかった。おれは迷った挙句、駐在所に電話をいれる事にした。親子そろって頭がおかしくなったんじゃないか、と言われそうでためらったのだけど、おれが見たのが幻や幽霊であったとしても、見たことは事実なのだ。受話器のむこうで何度か呼出し音がしたあと、聞きなれた声の警官が出た。おれが自分の名を告げると、警官は開口一番、『なんだ、また出たってのか?』と言ったので、おれは気おくれして、親父はまだそこにいるんですか、とだけ聞いた。親父は『もう30分くらい前に駐在所を出た』との事だった。おれは母ちゃんと親父の帰りを待った。30分前に出てるなら、もう着いていてもいいころだ。だけど親父はなかなか帰ってこなかった。おれは母ちゃんと二人で、冷めた朝飯を食いながら、「親父はまっすぐビニールハウスを見にいったんだろう」と話した。だけど、昼過ぎになっても戻ってこないので、おれはビニールハウスに親父をさがしに行った。例の橋まできたとき、やや新い足跡がひとり分、橋のうえに続いているのが見えた。その足跡を目で追うと、それは橋の途中の、例の女がうずくまっていたと言うあたりまで続き、そこで消えていた。その欄干の上の雪は、半分ほど欠けていた。おれは欄干に近寄り、そこから川面を見下ろした。まっ白な雪の土手にはさまれた川の、膝くらいまでしかない流水のなかに、黒いジャンパー姿の、長靴をはいた男がうつぶせに倒れていた。おれは土手を走り降り、川に入っていった。うつぶせに倒れている男は、親父だった。おれは必死に親父を土手にひきずり上げたけれど、すでに脈も呼吸も止まっていた。降りしきる雪の中を見あげると、川の対岸に、髪の長いコート姿の女が、口、首、胸のまわりを血で真っ赤に染めて、立っていた。女はすぐに雪のなかに消えた。おれは母ちゃんと二人、まだこの家に住んでいるが、あれ以来、雪の降る日は一歩も外に出なくなった。
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