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つきまとう女

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  • つきまとう女とは

    ゾゾゾ変 (1) 【電子限定カラーイラスト収録&電子限定おまけ付き】 (バーズコミックス)
  • 二年前の夏、
    俺はバイクで北海道ツーリングに出かけた。

    目的は北海道一周。

    日程は3日間。

    気ままな一人旅だ。

    北海道は予想以上に何も無い。

    街から街まで100kmを越えるときもある。

    その間、
    コンビニはおろか自販機すらない。

    気楽に長距離ツーリングを楽しもうと思って来たが最後。

    本当に長距離ツーリングが好きな人間以外には苦痛でしかない。


    俺の旅のコンセプトは、
    なるべく金をかけないこと。

    その為、
    旅館やホテルには一切泊まらず旅をする。

    道中での悩みは、
    ガソリンスタンドが街にしかないことだ。

    24時間営業なんて論外。

    大概のガソリンスタンドは、
    19:00には店を閉じる。

    早いところだと、
    17:00に閉めていたところも在った。

    俺のバイクは燃費が悪く、
    満タンで160kmしか走らない。

    日程は3日間。

    夜も走らないと間に合わない。

    だが、
    俺は頭の悪いことに、
    ガソリン携行缶を装備していなかった。

    更に、
    4日後には会社が始まるギリギリの日程。

    間に合うはずが無い。

    俺はその事に、
    半周した時点で気付いたのだ。

    俺は考えた。

    一周を諦めて、道央を突っ切り、
    函館からフェリーに乗って陸路で帰るか。

    それとも、意地で爆走し、
    小樽まで帰還して一周をやりきるか。

    悩んだ挙句、
    俺は一周することを決めた。

    「諦めたら、そこで試合終了ですよ」

    敬愛する安西先生がそう囁いたのだ。


    二日目の夜、
    俺は走っていた。

    北海道の夜は静かで暗い。

    東京の夜が昼間に感じられる程に、
    静かで暗い。

    辺りは木々が連なり、
    まるで俺に覆い被さる様にそびえている。

    気を抜くと、
    木々の中に飲み込まれてしまうような深遠を感じさせる。

    途中、
    メーターを見ると、
    ガソリン警告灯が点灯していることに気付いた。

    今日はここまでだな。

    そう思った俺は、
    道の駅にバイクを止め、
    そこで夜を明かすことにした。

    俺が止まった道の駅は、
    仮設トイレが設置されている以外に何も無い。

    覚悟はしていたが、
    なんとも寂しい限りだ。

    辺りには、
    民家どころか人一人居ない。

    小さな街灯だけが、
    俺と俺のバイクを照らしていた。

    携帯していた食料を平らげ、
    俺はコンクリートの上で横になる。

    月がやけにキレイだった。

    こんな月も、
    東京では見ることが出来ない。

    俺は北海道に来たことを少しだけ嬉しく思った。

    相変わらず木々に囲まれた深遠の暗闇の中で、
    俺は眼を瞑る。

    眠りに落ちかけた時、
    静寂を破る車のエンジン音が聞こえた。

    時刻は2:00。

    こんな深夜に走る人間が北海道にも居るのだな、
    と思い眼を開ける。

    どんな車が深夜の北海道を走っているのか、
    興味を持った俺は、
    道路沿いに顔を出した。

    なんのことはない。

    ただのトラックだった。

    俺は踵を返し、
    再び眠りにつこうとした。

    そのとき、
    妙なことに気付いた。

    仮設トイレのドアが開いている。

    ここに来たとき、
    仮設トイレのドアが開いていた記憶はない。

    いつ開いたのかは分からない。

    少なからず俺が居る間、
    誰も来てないし、
    俺も使っていない。

    トイレの中までは角度的に見えない。

    ドアは、
    小さく音をたてながら揺れている。

    僅かに近づくと、
    白い布のようなものが見える。

    「誰かいるのか?」

    俺はトイレの中を覗いた。

    瞬間、
    俺の心臓が脱兎の様に跳ね上がり、
    全身の毛穴が一気に開放される。

    女が首を吊っていた。

    俺は腰を抜かした。

    24年生きていて、
    腰を抜かすなんて初体験だ。

    いつから?なんで?どうして?

    そんなことばかりが頭を巡る。

    全身が震えていた。

    嫌な汗が這いずる様に、
    全身から流れ出ていた。

    とにかく警察に連絡しなくては。

    そう思った俺は、
    バイクに置いてあるケータイを取りに行った。

    その瞬間、
    大きな衝撃音が鳴り響いた。

    驚きのあまり、
    俺はその場で転倒した。

    振り返ると、
    女がトイレの前に立って俺を見ている。

    怯える俺から女は目を離すことなく、
    ゆっくりと右腕を上げると、
    仮設トイレを殴りつけた。

    女の力で殴ったとは思えないような、
    大きい衝撃音が鳴り響く。

    現実離れした光景に、
    俺は泣きそうだった。

    女の首には、
    ロープが巻きついたままだった。

    汚い白のワンピース。

    長いぼさぼさの髪。

    長い髪の間から、
    気味の悪い眼光が見える。

    どうみても普通の女じゃない。

    女は無表情で俺を見ながら、
    仮設トイレを殴りつけ、
    衝撃音を鳴り響かせる。

    周りには誰も居ない。

    暗い殺風景な空間に、
    腰を抜かす俺と仮設トイレを殴る女。

    女は首を吊っていたはず。

    生きている?なんで?

    そのうち、
    仮設トイレを殴りつけるスピードが上昇し、
    女が小声で喋りだした。

    「見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた」

    俺の血液は沸騰した。

    「なんだ!?なんなんだ、おまえ!?」

    俺は大声で怒鳴った。

    「いたずらなのか!?
    こんな誰も居ないところで、
    こんな悪趣味なことすんじゃねぇよ!!!!」

    女は手を止め、
    そのままゆっくりとうなだれると、

    「どうして?」

    とつぶやいた。

    俺の血液は更に沸騰した。

    どうして?意味が分からん。

    聞きたいのはこっちだ。

    「なに言ってんだ、
    この!!!ボケアマァ!!!
    さっさとどっか行けぇ!!!!」

    女は顔を上げ俺を睨む。

    「嫌だ」

    女はそう言うと自分の左腕に噛みついた。

    「嫌だ。嫌だ。嫌だ。
    一人は嫌だ。一人は嫌だ。一人は嫌だ。一人は嫌だ」

    つぶやきながら、
    女は自分の左腕に噛みつく。

    血が吹き出ても噛みつくことを止めない。

    肉の切れる音がする。

    女は泣いていた。

    泣きながら自分の腕を食いちぎっていた。

    女の口は血で真っ赤に染まっていく。

    腕からは白い骨が見え始めていた。

    俺の脳裏に、
    『逃げろ』という言葉が閃光のように走る。

    こいつは手に負えない。

    精神異常者だ。

    変態だ。

    変質者だ。

    俺はバイクに向かって全力で走った。

    逃げなければ俺が食われる。

    そんな思いが全身を駆け抜けた。

    メットを手に取り後ろを見ると、
    あの女がいない。

    なぜ、居ない!?

    その瞬間、
    俺の肩に何かが触れた。

    あの女の血まみれの左手だった。

    女はいつの間にか、俺の真後ろにいた。

    「置いてかないで…」

    女がそう言うのと同時に、
    手に持ったメットを女の顔面に叩きつけた。

    これ以上無い程の全力で、
    俺は女を殴った。

    女は口と鼻から血を噴出しながら、
    後ろに仰け反る。

    それでも女は、
    俺の肩から手を離さない。

    俺は何度もメットを女の顔に叩きつけた。

    俺は絶叫していた。

    ようやく女が俺の肩から手を放し、
    後方に倒れる。

    メットを女の顔面めがけて全力投球した後、
    バイクで俺は逃走した。

    なんだ!?あれはなんなんだ!?

    恐怖と不安を振り払うように、
    俺はアクセルを捻った。

    次の瞬間、
    俺は見覚えのないベッドの上で目が覚めた。

    病院?何で病院なんかに?

    そこは明らかに病院だった。

    何故自分がここに居るのか、
    全く記憶がない。

    俺は北海道の道の駅で、
    キチガイの女から逃げている最中だった。

    なのに、
    その先の記憶がない。

    何故か俺は病院の中に居る。

    怪我はしていない。

    事故を起したわけでもない。

    俺は病室の外に飛び出ようとした。

    ドアが開かない。

    外側から鍵がかけられている。

    「誰か、誰かいませんか!?」

    すると、
    看護師と思わしき男が出てきた。

    「どうなさいました?」

    「いや、あの、ここはどこですか?
    俺は何でこんなところに居るんですか?」

    看護師は溜息をつくと、

    「担当の先生との診断がそろそろ行われますので、
    詳しい話はそこで」

    そう言ってどこかへ行ってしまった。

    俺は頭が混乱した。

    ここはなんだ?

    何故、病室に俺は閉じ込められている?

    ふと、
    ベッドの脇に目をやると、
    ノートが置いてあった。

    ノートを手に取り、中を見ると、
    そこには俺の文字がびっしりと書き連ねて在った。

    『助けてくれ。あの女が。殺したのに。
    誰も俺を信じてくれない』

    内容の意味はさっぱり分からないが、
    筆跡は間違いなく俺の字だった。

    暫くノートに見入っていると、
    ドアの鍵が開く音がした。

    振り向くと、
    さっきの看護師の男と、
    警察官の姿をした男が入ってきた。

    警察官が俺の手首に手錠を嵌める。

    「ちょっと、何で手錠なんか!?」

    警察官は黙って俺を殴りつけた。

    倒れた俺を見下しながら警察官は、

    「面倒をかけるな」

    とだけ言った。

    二人の男に連れられ、
    俺は診察室と書かれた部屋に入れられる。

    白衣を着た医者のような男が待ち構えていた。

    二人の男は部屋から出て行き、
    俺と医者の二人きりになる。

    「調子はどうかね?」

    医者が問いかける。

    「訳が分かりません。

    何故、俺はこんなところに居るんですか?

    俺は北海道に居たはずです。

    俺は家に帰りたいです。

    家に帰して下さい」

    「君に帰るところなどない」

    「え?」

    「君は、
    所持していたヘルメットで女性を撲殺し、
    警察に捕まった。

    その後、心神喪失と診断され、
    この病院に隔離されることになった。

    君は社会的に完全に抹殺されているし、
    帰る場所も全て処分された。

    君に帰るべき場所はない」

    こいつは何を言っている?

    俺が女を殺した?

    俺の脳裏に、
    あのキチガイの女が浮かんだ。

    あいつを殺したのか?

    俺が?だからここに居る?

    そんな馬鹿な。

    俺に警察に捕まった記憶はない。

    だが、
    隔離病棟に居る。

    それは俺が精神異常者で、
    記憶があいまいなのも精神異常者だから?

    いや、違う。

    俺は正常だ。

    俺は。俺は。俺は。俺は。俺は。俺は。

    「混乱しているようだね?」

    医者が不意に話しかける。

    「当たり前じゃないですか」

    「君はもう社会的に死んでいる。

    気分はどうかね?」

    「なんだと?」

    こいつ、俺を挑発しているのか?

    俺が社会的に死んでいるだと?

    何のつもりだ。

    そんな事があってたまるか。

    「俺は誰も殺してない。

    社会的にも死んでなんかない!!

    お前は嘘吐きだ!!!」

    「いいや、君は殺した!

    だから君は、彼女と永遠に死ぬんだ!!

    永遠に彼女とともに死ね!!!

    死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」

    「何を言ってるんだ、テメェはぁ!!!」

    激高する俺と、
    訳のわからない事を叫ぶ医者。

    現実離れした異様な空間だった。

    その時、
    俺の首に生暖かいものが巻きついた。

    赤い血みどろの左腕。

    俺の背筋に電撃が走った。

    「見つけた…」

    あのキチガイ女だった。

    俺は絶叫した。

    これ以上の声は出せない程に絶叫した。

    俺には女が、
    暗く陰湿な冷たい壁に囲まれた、
    永遠の監獄のように感じられた。

    医者が立ち上がり、
    俺の両肩を掴む。

    「君は奈々子を殺したんだ!
    君には永遠に、奈々子と一緒に死んでもらう!!!

    もう私には無理なんだ!!

    この子は暗闇の中で死んだ!!!

    この子の孤独を君が共有してくれ!!!!」

    「嫌だぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」

    その瞬間、
    目の前が緑色に染まった。


    気が付くと俺は、
    道路脇の草むらの中で倒れていた。

    どこにも怪我はない。

    バイクも横倒しになっていたが、無事だ。

    夢…?

    俺は夢を見ていたのか?

    周りを見渡すと、
    あの道の駅が見える。

    仮設トイレは無い。

    時刻は8:00。

    俺は何をしていたんだ。

    不思議な体験だった。

    きっと俺は、
    夢か幻に踊らされていたのだろう。

    その後、
    俺は無事に北海道一周をやりきり、
    自宅へと回帰した。


    実を言うと、
    その後も俺は、
    その女に付きまとわれることになる。

    またそれは後日、
    暇な時に書く。

    結果的には、
    今はもうその女は居ない。

    ある霊能者のおかげで、
    その女の退治が出来たんだ。

    俺はその霊能者の人が居なかったら、
    狂って死んでいたかもしれない。


    あの北海道ツーリングから3ヶ月。

    俺は今、
    都内の駅前広場のベンチに座っている。

    夏の暑さも終わり、
    街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。

    季節の流れに街の色が移ろうように、
    3ヶ月間で俺の人生も大きく変わった。

    あの日、
    俺と一緒に北海道を旅したバイクはもう居ない。

    トラックと正面衝突を起こし、
    跡形も無く大破した。

    俺はその事故で、
    左脚と左腕、
    左側の鎖骨と肋骨4本を骨折する、
    重傷を負った。

    全治5ヶ月と診断された。

    生きていただけ有難いが、
    全治5ヶ月の人間を、
    俺の会社は不必要と判断し、
    書類一枚の郵送で解雇した。

    おかげで、
    バイクも失い、
    仕事も失い、
    残ったのは僅かばかりの貯金と、
    ポンコツの身体だけだった。

    幸い、
    後遺症も無く回復しそうな感じではあるが、
    左腕の回復が妙に遅い。

    左脚、肋骨、鎖骨はもう殆ど治っているのに、
    左腕は未だに折れたままだ。

    医者も不思議がっていた。

    俺も不思議だ。

    あの時、
    俺は何故事故を起してしまったのか、
    記憶が無い。

    医者は、
    事故のショックに因る、
    一時的な記憶障害と言っていた。

    だが、
    今はそんなことはどうでもいい。

    俺はすっかり社会から逸脱していた。

    例え怪我が癒えても、
    俺には帰るべき職場も無い。

    俺はすっかり生きていく自信を失っていた。

    このまま俺は社会不適合者として、
    枯葉の様に朽ち果てるのではないだろうか。

    そんな事ばかりを考えていた。


    俺が今、
    駅前広場のベンチに座っている理由は、
    一週間前の出来事に遡る。

    俺は病院に行く為に、
    この駅を利用している。

    俺の体は、
    俺の思うように動いてくれない。

    不意に人の波に足を取られ転倒した。

    そんな時、
    俺を助けてくれる人間は皆無だ。

    ほんの少しこちらに目線をくれるだけで、
    人々は通り過ぎていく。

    別にそれでも良かった。

    助けて欲しいとは思わない。

    妬む気持ちや、
    恨めしいという気持ちは無い。

    ただ自分が惨めで仕方なかった。

    弱いということは、
    孤独で惨めな感情を引き立てる。

    毎日が泣きたい日常だった。

    駅前広場のベンチに座り、
    俺は休んでいた。

    人々の流れを見ながら、
    俺はかつての日常を思い出していた。

    あの頃に戻りたい。

    過去に戻れたら、
    どんなに良いだろうか。

    不意に若い男が、
    俺の隣に座った。

    若い男はタバコに火を点け、
    煙を空に向かって吐き出した。

    「お兄さん、やばそうだね」

    若い男が俺に話しかけてきた。

    俺は黙って人々の流れを見ていた。

    「別に怪しいもんじゃないよ。

    ただ今のお兄さん見てると、
    助けが必要なのかなって思ってさ」

    「助け?助けなんか要らないさ。

    体が治れば、
    俺だって自力で生きていける」

    若い男は、
    溜息をつくように煙を吐き出す。

    「その体はもう治らないよ。

    治ったとしても、
    また同じ事を繰り返すだけだ」

    俺は黙って人々の流れを見る。

    言い返す気力も湧かない。

    「一週間後にさ、
    またここに来てよ。

    そしたら俺たちが、
    お兄さんの力になるからさ」

    そう言って若い男は、
    その場から立ち去った。

    俺は虚空を眺めていた。

    俺はあんな奴に、
    あんな事を言われるまでに落ちぶれたか。


    その日の夜、
    俺はアパートのベッドの上で横になっていた。

    姉が時折俺の面倒を見に来る以外に、
    誰も訪れない。

    俺は孤独な狭いアパートの中で、
    ただ天井を眺めていた。

    暫くして眠りに落ちると、
    不意に目が覚める。

    天井に穴が開いている。

    それも、
    人一人が通れそうなほどの大きな穴が開いていた。

    突然現れた天井の穴に驚いた俺は、
    体を起そうとするが、
    まるで拘束具で縛り付けられたように体が動かない。

    俺は一瞬パニックを起しかけた。

    天井を一点に見つめたまま、
    身動き一つ取れない。

    なんとか体を動かそうと足掻く俺の耳に、
    何かが這いずるような音が聞こえた。

    音の発信源は天井の穴の中。

    俺の全身に警戒信号が流れ出す。

    嫌な気配が天井の穴の中から満ち溢れていた。

    俺は目を閉じた。

    これは夢なのだと自分に言い聞かせた。

    起きろ!起きろ!起きろ!

    必死で念じた。

    目を開けた次の瞬間、
    俺は我が眼を疑った。

    あの北海道で遭遇したキチガイ女が、
    天井の穴の中に居る。

    俺の心臓は、
    張り裂けんばかりに強く鼓動した。

    キチガイ女は、
    黙ってこちらを見ている。

    身動き一つ取れない俺は、
    ただひたすらに震えていた。

    キチガイ女の口が、
    モゴモゴと奇妙な動きをする。

    まるでガムを噛むような素振りの後、
    女の口からゆっくりと血が流れ落ちてきた。

    その血が滴となって、
    俺の顔にこびりつく。

    女の口から吐き出された血は、
    人の血とは思えない冷たさだった。

    死体の血。

    俺の頭の中で連想した物はそれだった。

    俺は絶叫した。

    誰でもいい。

    気付いてくれ。

    誰か助けてくれ。

    俺の顔を埋め尽くすほどに、
    尚も女は血を吐き出し続けている。

    俺は叫んだ。

    心の底から叫んだ。

    助けを求め、
    狂ったように叫んだ。

    すると女は、
    穴から這いずるように身を乗り出すと、
    そのまま天井から落ちて来た。

    俺の心臓は停止寸前だった。

    落ちてきた女は、
    天井にぶら下がるように首を吊っていた。

    冷たい無表情な顔で、
    俺を見下ろしている。

    女の口からは、
    大量の血が流れ出ていた。

    冷たい血が、
    女の白いワンピースを赤く染める。

    唐突に、
    女の首のロープが切れる。

    まるで操り人形の糸が切れた様に、
    女は力なく俺の腹部に落下した。

    俺の恐怖は頂点に達していた。

    這いずるように、
    女の顔が俺の耳元に近づく。

    「もうお前は私のなの…」

    そう言いながら女は、
    俺の体を弄る。

    俺は恐怖で涙が止まらなかった。

    「許してくれ、助けてくれ」

    懇願することしか俺には出来なかった。

    女は俺の口に、
    ねじ込むような不快なキスをしてきた。

    俺は泣きながら、
    くぐもった声で絶叫した。

    その刹那、女は消えた。

    俺は大量の汚物を口から吐き出した。

    朝、
    目覚めた俺の周囲は、
    俺の吐いた汚物にまみれていた。

    鏡を手に取り、顔を見る。

    女の血は付いていない。

    ベッドの周囲にも女の血は無かった。

    天井にも穴は無かった。

    ただ俺のゲロだけが散乱していた。

    俺は荷物をまとめると、
    アパートを飛び出した。

    昼間は駅の構内で休み。

    夜はファミレスで明かした。

    俺はもう、
    一人になる環境に耐えられなかった。

    誰でも良いから、
    人の居るところに居たかった。

    そんな生活が一週間続いた。

    俺の心身は限界に近づいていた。

    癒えきらない体。

    慣れない生活環境。

    俺の中で色々なものが崩壊した。

    ほんの少し前まで、
    俺はバリバリ仕事をこなし、
    一端の社会人として生きてきた。

    それが今じゃ、
    ホームレスと変わらない。

    その理由が、
    あのキチガイ女に纏わり憑かれているからだ。

    そんな理由で俺はこんな生活をしている。

    こんな事は誰にも言えない。

    精神異常者と思われても仕方が無い。

    俺はもう駄目かもしれない。

    本気でそう思えた。

    俺の心は半分死んでいた。

    何もかもが絶望的に思えた。


    気が付くと俺は、
    あの若い男と出会った、
    駅前広場のベンチに座っていた。

    最後の拠り所とでも思ったのかもしれない。

    俺はただ何も考えずにベンチに座っていた。

    夏の暑さも終わり、
    街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。

    俺は彼を待っていた。

    駅前広場のベンチに座り、
    虚空を眺めていた。

    過酷な環境に耐えかねた俺は、
    もう考える事も放棄していた。

    ひたすら俺は、
    一週間前に出会った若い男を待っていた。

    タバコに火を点ける音がする。

    いつの間にか、
    彼が俺の隣に座っていた。

    「前に会った時より酷くなってるね、お兄さん。
    もう限界でしょ?」

    若い男は俯きながら、
    地面に向かって煙を吐いた。

    「本当に助けてくれるのか?」

    俺はすがる思いで尋ねた。

    「まぁ、
    やれるだけのことはやりたいね。

    このままお兄さん放置してると、
    死んじまうのは眼に見えてるし。

    それを分かってて死なしちまったら目覚めが悪い」

    「何をする気だ?」

    「まぁ、付いて来なよ」

    そう言うと若い男は、
    駐車してあった車に俺を乗せた。

    暫く車を走らせ、
    ビルの中に入る。

    その中に、
    若い男の事務所があるそうだ。

    『○△×探偵事務所』と書かれたビルの一室。

    ここが若い男の事務所。

    「探偵?」

    俺がそう呟くと、
    若い男は

    「本業はね」

    と答えた。

    事務所の扉を開けると、
    中には誰も居ない。

    「あぁ、
    今はみんな出払ってるよ。

    多分、社長は居ると思うんだけどね」

    「俺は金なんか持ってないぞ」

    「ん~、
    うちの社長、金にはうるさいけど、
    根は良い人だし、多分大丈夫」

    そう言うと若い男は、
    奥の『社長室』と書かれた扉の前に進む。

    軽く2回ほどノックをすると、
    中から

    「どうぞ」

    と言う返事がした。

    扉を開けるとそこには、
    如何にもキャリアウーマンといった風貌の女が居た。

    この女が社長だ。

    女社長は、
    俺の顔を見るなり舌打ちをした。

    「また、ろくでもない奴を連れて来やがって…」

    小声だったが確かにそう言った。

    あからさまに俺は歓迎されていない様子だった。

    「社長、いや、その、あの、えとー、そのー」

    若い男がしどろもどろになる。

    女社長は若い男を睨み付けると、
    書類を机に叩きつけた。

    「あんたねぇ!
    うちは慈善事業で商売やってんじゃないのよ!!

    こんな金もない奴連れてきて、
    どうやっておまんま食ってくんだよ!!」

    まさに男勝りな怒号だ。

    「いや、でも社長わかるでしょ!?
    この人このままだと死んじゃいますよ!?」

    「この馬鹿!!お人好しもいい加減にしろ!!」

    うなだれる若い男。

    どうやらこいつは、
    本気で俺を助けたいと思ってくれているらしい。

    有難い話だが、
    俺は人に迷惑をかけてまで助けを請うつもりは無かった。

    踵を返し、
    俺は事務所を後にしようとした。

    すると女社長が俺を呼び止めた。

    「待ちなさいよ、
    若年性浮浪者モドキ。

    こいつの言うように、
    あんたはこのままだと死ぬよ。
    どうするつもりだい?」

    「さっきから、
    何で俺が死ぬってはっきり言えるんですか?
    なんか確信する様な事でもあるんですか?

    俺は確かに追い詰められています。
    でも、あなたの言う様に金はありません。

    この若い人に迷惑かけるつもりもないし、
    俺は出て行きます」

    女社長がタバコに火を点け、
    煙を吐き出す。

    「人に迷惑をかけたくないってのは良い心得だ。

    それならそれで、
    人の役に立ってみる気はないかい?」

    「どういうことですか?」

    「手は有るって言っているのさ」

    「ま、まさか社長…」

    若い男の顔が青ざめる。

    「さっきあんたは私に、
    『なんの確証があって、
    自分が死ぬなんて言っているのか』
    と尋ねたわね」

    俺は頷く。

    「あんた、どうやら厄介なのに取り憑かれているのよ。

    あんた、首吊っている、
    薄汚いワンピースの女に心当たりあるでしょ?」

    俺は驚いた。

    その女の事を、
    今まで誰にも話したことは無い。

    「ふふ~ん。
    驚いているわねぇ。

    まぁ、私も本業は探偵なのだけど、
    副業で霊能関係の仕事もしているのよ。

    それにしても、
    良い~顔で驚くわねぇ。

    ふふ~ん。
    好きよ、そういう顔」

    俺は考えた。

    本業が探偵で副業が霊能力者?

    なんて怪しさなのだ。

    ここに居て良いのか俺は?

    でも、あのキチガイ女の事を言い当てた。

    それも事実だ。

    だが、あのキチガイ女は霊なのか?
    俺の錯覚ではないのか?

    「さっき言っていた良い方法って…?」

    女社長は苦笑いをする。

    「誰も良い方法なんて言ってないでしょ?
    ただ手は有るって言ったのさ」

    「じゃあ、その手というのは?」

    「私に除霊を頼むのであれば、
    最低でも200万はかかる。
    あんたには、そんな金はない。
    でも、そこの若いのがやるなら話は別よ。

    そいつは霊能者としてはペーペーもいい所。
    だから、そいつの現場実習もかねて除霊をさせてもらうなら…
    お金はかからない。
    逆にこちらから礼金を払う。

    ただし、身の保証の類は一切無いけどね」

    そう言うと女社長は、
    微笑みながらタバコを揉み消した。

    それを聞いた若い男は、
    頭を抱えて天を仰ぐと、

    「オーマイガー…」

    とだけ呟いた。

    「いや、社長。
    俺どうすれば良いんすか?」

    若い男の問いかけに女社長は、

    「はぁ!?」

    と言い、
    不機嫌な態度を示す。

    「今からクライアントと問診!

    その後に除霊方法を検討し、
    計画書を書き上げ、
    明日までに私に提出!!
    分かったか!?」

    「は、はい!!
    いや、でも、あの、その…」

    「いいからさっさと状況を開始しろ。
    ボケナス!!」

    女社長に激高され、
    追い出されるように俺たちは事務所を飛び出た。

    その後、俺たちは喫茶店の中に入る。

    「良い店でしょ?
    ここ社長の店なんですよ」

    若い男はそう言うと、
    慣れた態度で席に座る。

    席は個室のようになっていて、
    周りに会話は届かない。

    コーヒーを二人分注文し、
    若い男はノートPCを広げた。

    「じゃあ、お兄さん。
    これから問診を始めます。
    用意は良いですか?」

    「気になる事があるんだが…」

    「なんです?」

    「君はさっきまでタメ口だったのに、
    急に敬語で話すようになった。
    なんでだい?」

    「お兄さんが、
    俺の正式なクライアントになったからです。
    本当は社長にやってもらいたかったけど、
    仕方ありません。

    俺が現場実習としてお兄さんの除霊をするなら、
    会社から人材育成費として予算が出ます。
    お兄さんにも、
    礼金として2万円支払われます。
    ある意味、
    金銭的にはこれが最善の方法です。

    ただ、
    俺も本当にペーペーなので、
    身の保証の類は一切出来ません。
    でも全力でやります。

    下手に手を抜けば、
    俺も死にますから」

    そう言うとジョンは、
    優しく微笑んだ。

    「言いたいことはなんとなく分かった。
    ただ、俺は霊とかそんなことには疎い。

    正直、今回のキチガイ女の事も、
    俺の精神疾患による幻か錯覚だと思っていたんだ。

    だから急に霊とか、
    そんな事を言われても戸惑う」

    「なるほど。
    じゃあ、少し霊に関して説明します。

    信じるも信じないも、
    お兄さんの自由です」

    俺は小さく頷いた。

    と同時に、
    少し悲しい気分になった。

    俺はほんの少し前まで、
    普通のサラリーマンだった。

    それが今じゃ霊だのなんだのと、
    怪しいことに関わっている。

    「先ず、俺たちがクライアントに霊の事を説明するとき、
    PCを例えに用います」

    「PC?」

    「そう、PCです。
    今のお兄さんの状態は、
    ウイルスに侵されたPCです。

    PCとはお兄さん。
    ウイルスとは悪霊。

    つまり、
    お兄さんの言うキチガイ女の事です」

    「また、新しい例えだな」

    「悪霊が取り憑く。
    よく聞くフレーズだと思います。

    では具体的に、
    人間のどこに取り憑くのか分かりますか?」

    俺は黙ってコーヒーに口をつける。

    「脳です。
    悪霊は人間の脳にハッキングすることで取り憑きます。

    そして、
    脳の中に自分というウイルスを根付かせ、
    脳を支配することで、
    その人間の内側から幻覚や錯覚を起こし、
    精神や肉体を破壊していきます。

    個人の脳内での出来事なので、
    他人には認識する事が難しいです。

    一般的な霊であるならば、
    人間が生まれつき持っているファイアーウォール
    =守護霊を突破することは出来ません。

    しかし稀に、
    強力なハッキング能力を持った悪霊も居ます。

    俺たち霊能者は、
    ウイルス=悪霊と同様に、
    人の脳内に侵入することが出来ます。

    霊能力=ハッキング能力です。

    俺たちの仕事は、
    悪霊=ウイルスに侵された人間の脳に侵入し、
    駆除=除霊することです」

    何がなんだか訳が分からない。

    もしかして俺は、
    関わっちゃいけない世界に足を踏み入れたのか?

    そんな気持ちでいっぱいだった。

    「ここまでで何か質問はありますか?」

    若い男はそう言いながら、
    ノートPCに何かを打ち込んでいた。

    「何故その悪霊と言うのは、俺に取り憑いたんだ?
    俺には何の因縁もない女のはずだ」

    若い男はひたすらノートPCのキーボードを叩きながら、
    質問に答える。

    「取り憑いたのは、
    たまたま、という表現が適切かもしれません」

    「たまたま?偶然ということか?」

    「はい。
    たまたま侵入しやすかった。
    多分それだけです。

    本当の目的は、
    誰でも良いから自分の中に取り込むことだと思います。
    悪霊は生きた人間を殺して、
    取り込むことで勢力を拡大させます。

    お兄さんをベースに、
    更なるグレードアップを狙っているのでしょう」

    「何のために?」

    「恐らく、孤独の穴埋め。
    もしくは、恨みの穴埋め。
    或いは両方。
    といったところでしょうか。

    そんな事をしても無意味なんですけどね。
    むしろ逆効果です。

    彼女の穴埋めは、
    永遠に叶わないです」

    「随分自分勝手な、
    テロリストのような理由だな…。

    もう一つ疑問がある。
    君は…」

    「ジョンでいいです」

    「ジョン?」

    「仲間内ではそう呼ばれています。
    本名が言い辛い名前なので」

    ジョンか…。

    昔、うちで飼っていた犬と同じ名前だ。

    「じゃあ、ジョン。

    さっき君は、
    社長に俺の除霊を言い渡された時に、
    頭を抱えて『オーマイガー』と呟いたな。

    それと、
    『下手に手を抜けば自分も死ぬ』と言った。
    それについて説明が欲しい」

    「あ、聞こえていたんですか?
    まぁ、なんと言いますか。

    正直に言うと、
    俺の手に負える相手じゃないと思ったんです」

    「手に負えない?」

    「お兄さん、
    心当たりがありませんか?
    医者、警察官、看護師の3人の男」

    俺は驚いた。

    こいつら何故そんな事が分かるんだ。

    「心当たりは…ある」

    「そいつらは、
    お兄さんの言うキチガイ女が、
    今まで殺してきた人間です。

    今は完全に彼女に取り込まれて、
    彼らが彼女のファイアーウォールになっているんです」

    「殺してきた?」

    「そうです。

    今のお兄さんと同様に取り憑き、
    苦しめた挙句に殺しました。
    中でも医者との繋がりが強い。

    恐らく最初の被害者であり、
    親子だったのかもしれません」

    俺は北海道での出来事を思い出していた。

    「俺には手に負えないというのは、
    その3人が理由です。

    社長はお兄さんを見た瞬間に、
    キチガイ女の姿が見える所まで侵入しました。

    でも俺には、
    未だに女の姿が見えない。

    ファイアーウォールである3人を見る所までしか侵入できません」

    北海道で見た幻。

    あの病院内で出会ったあの3人も、
    あの女に殺されているだと?

    「仮に強引に彼らを突破しようとしても、
    彼ら3人に足止めを食らうでしょう。

    その隙に女が俺の中に逆侵入し、
    今のお兄さん同様、
    俺にも取り憑くでしょう。

    恐らくそうなれば、俺の命も危ない」

    じゃああの時、
    医者が言った言葉の意味は?
    奈々子?あの女の名前か?

    「方法は考えます。
    俺もこの商売に命懸けていますから」

    社会的に抹殺?
    私には無理なんだ?
    孤独を共有?

    俺はいっぺんに不可思議な情報を得てしまった為か、
    頭が混乱していた。

    「お兄さん?どうかしましたか?」

    ジョンの言葉に我に返る。

    頭が混乱していた。

    「なあ、ジョン。
    仮にこのまま何もせずに放置していたら、
    俺はどうなる?」

    ジョンのノートPCを打つ手が止まる。

    「死にますね。
    事故死、病死、自殺…。

    俺は預言者じゃないので、
    その先の死因までは分かりませんが。

    キチガイ女は、
    今まで3人も殺めている。
    非常に危険な女です。
    殺される可能性は極めて高い…」

    俺は頭を抱えた。

    気が狂いそうだ。

    「ジョン…俺が今までにあの女を見たのは2回だ。
    その時の話をする」

    俺はジョンに、
    北海道での出来事。

    それと、
    初めてジョンと出会った日の、
    夜の出来事を話した。

    ジョンは真剣な眼差しで俺の話を聞いていた。

    話し終わった後のジョンの第一声は、

    「予想以上に厄介です」

    だった。

    「そんなに厄介なのか?」

    「厄介です…。
    お兄さん、その病院の中で
    『これは現実じゃない』という違和感は覚えませんでしたか?」

    「違和感は無かった。
    今でもあれは現実のように感じる」

    それを聞いたジョンの顔は、
    更に深刻な表情に変わる。

    「そこまでリアルな病院を、
    お兄さんの脳に作り上げた。

    しかも、
    同時に3人をその場に出している。
    これは女…奈々子ですか?

    そいつが、
    お兄さんの脳をかなり深い部分まで侵食していることと、
    完全に3人を掌握していることを示しています。
    相当ですよ、これは」

    俺は言葉を失った。

    不意に底なし沼の深みに陥った気がした。

    「お兄さん、正直な俺の感想を言います」

    「なんだ?」

    「今まで良く生きていましたね」


    夜、俺とジョンはホテルの一室に居た。

    「良い部屋でしょ?
    ここ、社長の従兄弟が経営するホテルなんですよ」

    確かに良い部屋だった。

    地上20階に位置するこの部屋からは、
    キレイな夜景が見える。

    「お兄さん、
    家族への連絡は済みました?」

    「ああ。
    何て説明したらいいか分からなかったけど、
    なんとか納得して貰ったよ」

    「事が済むまで申し訳ないですけど、
    お兄さんをここに監禁させてもらいます。

    下手をすると、
    ご家族にも迷惑がかかりますので…」

    俺の家族は、母と姉の二人。

    父は3年前の秋に、
    心筋梗塞で死んだ。

    父が死んだ時、
    そばには誰も居なかった。

    気付いた時には、
    自宅で孤独死していた。

    俺にとって良い父親だった。

    俺は生涯で最も本気で泣いた。

    残された体の弱い母を、
    俺が守らなくてはいけないのに、
    今の俺はこの様だ。

    本当に情けない。

    「なぁ、ジョン。
    お前にも家族が居るんだろ?」

    俺の質問に、
    ジョンは少し困った顔をした。

    「血の繋がった家族は居ません。
    俺、施設の出なんです。
    だから…」

    「そうなのか。
    なんか悪いこと聞いちまったかな」

    「いえ、俺には家族が居ます。
    社長や社員のみんなです。

    俺は社長に拾われていなかったら、
    本当にろくでなしで人生を終えるところでした」

    そう言うとジョンは優しく微笑んだ。

    「あの女社長、
    ヒステリックで怖そうな人だったけど、
    お前の言ったとおり根は良い人なんだな」

    「まあ、そうですね。
    普段はおっかないですけどね。
    あと…お兄さん」

    「ん?」

    「あの人、女じゃないですよ」

    「え?」

    「改造済みです」


    暫く俺は夜景を眺めていた。

    こんなに落ち着いた環境は久しぶりだ。

    ジョンはひたすら、
    ノートPCで計画書を作成していた。

    「なあ、ジョン」

    「なんですか?」

    「俺のような人間は他にも居るのか?
    こんな風に、
    訳も分からず取り憑かれてしまう人間が、
    俺の他にも…」

    ジョンは静かに溜息をつく。

    「多いですね。
    でも、お兄さんは運が良い部類に入ります。
    俺たちと出会いましたから。

    多くの人は、
    何も出来ずにただ死ぬだけです。

    最初にお兄さんが言ったように、
    自分がおかしいのだと思い込んで、
    大概の人は死にます」

    ジョンはタバコに火を点け、
    煙を深く吸い込んだ。

    「近年の自殺者数は、
    年間3万人以上になります。
    一日に100人は自殺しているのです。

    死因不明や行方不明を含めると、
    もっと居るのかもしれません。

    社長は言っていました。
    『日本人の守護霊が年々弱くなっている』と。

    その為、
    本当に小さな悪霊にも、
    簡単に取り憑かれてしまう人間が増えた。

    勿論、
    全部が全部悪霊の仕業とは言えませんが、
    『これは本当に悲しいことなのだ』
    そう言っていました」

    「守護霊…か。
    さっきも言ったが、俺は霊とかには疎い。
    守護霊ってのは、なんなんだ?」

    ジョンはノートPCから手を放し、
    こちらに振り向いた。

    「守護霊と悪霊…同じ霊という字で表現しますが、
    根本的には全く異なる存在です。

    悪霊は、自分自身の感情と意志に依存し存在します。

    逆に守護霊は、
    人間の温かい記憶に依存して存在します。

    悪霊の強さは、
    自身の念の強さに左右され、

    守護霊の強さは、
    人の温かい記憶よって左右されます」

    「温かい記憶?それはなんだ?」

    「優しさですね。
    人は誰かに守ってもらったり、
    助けてもらって、
    優しさを身につけます。
    助け合いの精神です。

    その精神が、
    守護霊の力になるのです」

    やっぱり俺にはよく分からない。

    ただ、ジョンが真剣なのは分かる。

    「それって何かの宗教か?」

    「いえ、社長の受け売りです。
    俺たちは宗教団体ではないです」

    ジョンの言うとおり、
    日本人の守護霊とやらが全体的に弱くなっているなら、
    それは助け合いの精神の欠如が原因か…。

    確かに悲しいことではある。

    なら俺も、
    その助け合いの精神が無いが故に、
    こんなことになってしまったのか。

    「お兄さんの守護霊は強いですよ」

    「なに?」

    「さっきも言いましたけど、
    お兄さんは本来、
    死んでいてもおかしくなかった。

    それくらい強烈な奴に憑かれたんです。
    でも、お兄さんは死んでいない。
    守護霊が守ってくれているんですよ」

    「俺の守護霊って…?」

    「お父さんですよ。
    お兄さんのお父さんが、
    お兄さんを守ってくれています。
    ギリギリの勝負ですけどね。
    本当に良く頑張ってくれています。

    お兄さんは、
    良い人に育ててもらったんですね」

    それを聞くと、
    俺は黙って窓の外に広がるキレイな夜景を眺めた。

    キレイな夜景が、
    うっすらとぼやけて見えた。


    夕飯にジョンがスパゲティを差し出した。

    「食って下さい。
    これから先、体力勝負になりますから」

    ジョンには申し訳ないが、
    今の俺に食欲はなかった。

    半分ほど手をつけて限界だった。

    それを見てジョンは溜息をつく。

    俺はこの先の不安で心を締め付けられていた。

    訳も分からないままに騒動に巻き込まれ、
    こうしている。

    納得がいかなかった。

    どうしてこんなことに俺は巻き込まれたのか。

    自問自答してもジョンに聞いても、
    俺の心は納得しなかった。

    窓の向こうに見える景色の中では、
    今も人々が移ろうように流れていく。

    かつては俺もあの流れの中に居た。

    あの日々に戻りたかった。

    思いふけっていた俺の耳に、
    窓の縁から何かが張り付くような音がした。

    音の方向に眼をやると、
    俺の瞳孔は一気に開いた。

    人の手が窓の向こう側に張り付いている。

    ここは地上20階。

    ベランダも無い。

    人が立てるような場所ではなかった。

    そんな場所に人の手がある。

    俺はジョンの名を叫んだ。

    その瞬間、
    ジョンは俺の前に立ちふさがり、

    「窓から離れてください!!」

    と叫んだ。

    ジョンは携帯を取ると、
    どこかに電話し始めた。

    俺は窓の手から視線を外せずにいた。

    「大丈夫です。
    俺が居ます。
    この部屋の中には入って来られません」

    震える俺にジョンはそう言った。

    その時、
    ゆっくりと手の主が這いずるように動き出す。

    俺は手の主の顔を見た瞬間に、
    頭を打ち抜かれるような衝撃を食らい絶句した。

    手の主は俺だった。

    窓の向こう側に俺がいた。

    どう見ても俺だった。

    俺の頭は完全に真っ白になった。

    どうして俺が窓の向こう側に張り付いているんだ。

    俺はここに居るのに、
    窓の向こう側にも俺は居る。

    俺の頭は完全に混乱した。

    「社長、俺です!ジョンです!
    マズイことになりました!

    ドッペルゲンガーです!
    お兄さんのドッペルゲンガーが出ました!
    俺の眼にも見えます!!

    今は窓の外に居ます!!
    はい!!御願いします!」

    ジョンの電話先は社長だった。

    何かを社長に御願いし、
    ジョンは携帯を切る。

    「お兄さん、
    あいつに絶対に触れないで下さい!!

    触れたら、
    俺でも社長でも、
    お兄さんの命を助けられない!!」

    窓の向こう側のもう一人の俺は、
    激しく狂ったように窓を叩き始めた。

    その衝撃音が連鎖するように、
    部屋中から鳴り響く。

    「開けろぉおお!!開けろぉぉおおおお!!」

    俺が窓の外でそう叫んでいた。

    俺は縮こまりながら、
    心の中で

    『止めてくれ、もう止めてくれ!』

    と何度も叫んだ。

    ジョンは

    「速くしてくれ、速くしてくれ」

    と呟く。

    次の瞬間、
    ジョンの携帯が鳴り響く。

    携帯の着信音に、
    窓の向こう側の俺は驚いた表情を浮かべると、
    溶けるように消えていった。

    「なんだ!?あれはなんなんだ!?
    ジョン!?俺が居た!!俺が居たぞ!!!」

    怒鳴る俺を無視して、
    ジョンは携帯で話をしている。

    「はい、消えました。
    有難う御座います。
    はい…はい…分かりました」

    俺はもう何がなんだか訳が分からなかった。

    ジョンはソファに腰掛けると
    今起きた事態を説明しだした。

    「非常にマズイです、お兄さん。

    窓の外に居たお兄さんは、
    あの女、奈々子が作り出した、
    お兄さんの分身です。

    あの分身に触れると、
    確実に死にます。

    俗に言う、
    ドッペルゲンガーって奴です。

    これは、
    女がお兄さんを本気で殺しに来た証拠です。
    ドッペルゲンガーの殺傷能力は異常に高いんです。

    多分あの女は、
    お兄さんをゆっくり苦しめてから殺すつもりだった。

    その方が、
    お兄さんは強い悪霊として育ち、
    女にとって役に立つからです。

    でも、俺たちが現れた。
    だから、早急に殺すことにしたんだと思います。

    実を言うとお兄さんの中に、
    社長特製のファイアーウォールを仕込んどいたんです。

    普通の悪霊なら、
    身動き一つ取れなくなるはずです。

    それをあの女は軽々と突破し、
    お兄さんの分身を作り上げた。

    更に悪い事に、
    俺はお兄さんの分身を見ようと思って、
    見た訳ではありません。
    あの女に強制的に見せられた。

    つまり俺も、
    いつの間にか女に侵入されていたんです。

    さっきのは、
    社長に御願いして払いました。
    今の俺にはあれを払う力はありません。

    俺にとって何よりもショックなのは、
    夢の中ではなく現実の中で、
    女があそこまでリアルなお兄さんの分身を作り上げ、
    俺とお兄さんの中に、
    同時に具現化したことです。
    俺はその前触れに全く気付かなかった。

    女が俺の遥か上の存在だという事を、
    心底思い知らされました」

    呼吸を乱しながら、
    ジョンは悔しそうな表情でそう言った。

    俺の体は、
    未だに震えが止まらなかった。

    ジョンの話が、
    更に俺の恐怖心を煽る。

    俺はジョンに怒鳴った。

    「じゃあ、どうするんだよ!?」

    ジョンは俯いた。

    「どうしよう…」

    そう言うとジョンは、
    頭を抱えて塞ぎ込んだ。

    地上20階に位置する豪華なホテルの一室。

    キレイなインテリアが並ぶこの部屋に、
    似つかわしくない二人の男。

    一人は恐怖で小刻みに震え、
    一人は頭を抱えて俯いている。

    俺とジョンだ。

    俺たちは、
    敵の強大さに打ちのめされていた。

    俺の心は絶望感でいっぱいだった。

    逃げることだけを必死で考えていた。

    「ジョン、サラ金でも闇金でも何でも良い…
    借金して200万揃える。

    だから、社長に俺の除霊を頼んでくれ…」

    ジョンはタバコに火を点けると頭を横に振った。

    「無理です、お兄さん。
    社長は、一度言ったことを絶対に曲げません。

    俺に除霊をやらすと言ったからには、
    例え俺が死んでも、
    お兄さんが死んでも、
    社長は手を出しません」

    俺はテーブルに拳を叩きつけた。

    「ふざけるな!!
    俺の命が懸かっているんだぞ!!!」

    「お兄さん」

    「お前だって、
    あの女には勝てないって言ったじゃないか!!!」

    「お兄さん」

    「200万で足りないなら300万だって用意する!!
    だから俺を助けてくれ!!!」

    「お兄さんっ!!!!」

    ジョンは声を荒げて立ち上がった。

    「俺を…信じてください」

    「お前を…信じる…?」

    ジョンは真剣な眼差しで俺を見つめる。

    その鋭い眼光に俺は戸惑った。

    「俺はお兄さんを守ります。
    お兄さんは俺が絶対に助けます。

    だから、俺を信じてください。
    俺はお兄さんを守る為に命を懸けます。

    例え、俺が死んでも…
    絶対にお兄さんは俺が助けます」

    俺は困惑した。

    こいつ、
    何でそこまで言えるんだ?

    「そこまでお前が、
    俺を守りたい理由はなんだ?
    お前だって危ないんだぞ?」

    ジョンは黙り込むと深く溜息をついた。

    「俺たちが除霊をする時、
    対象者の守護霊の力を借ります。
    つまりお兄さんの親父さんです。
    お兄さんの親父さんと沢山話をしました。

    ジョンって名前…、
    お兄さんの家で、
    昔飼っていた犬と同じ名前なんですね。

    親父さん、笑っていました。

    俺は未熟だから、
    お兄さんの親父さんと話しているうちに、
    親父さんに感化されてしまったのかもしれません。

    今では…お兄さんが、
    俺の本当の兄貴のように思えるんです…」

    「お前…」

    「親父さんのお兄さんを守りたいという気持ちは本物です。
    親父さんは死ぬ寸前に、
    お兄さんや娘さん、
    それに奥さんのことを思っていました。

    『すまない』
    そういう気持ちでいっぱいだったんです。

    だからこそ今でも親父さんは、
    お兄さんたちを必死で守っているんです。
    俺はその気持ちに応えたい」

    それを聞いた俺は足元から崩れ落ち、
    その場に跪いた。

    ジョンが俺の肩を掴む。

    「俺を…信じてください」

    俺の肩を掴むジョンの手は、温かった。


    深夜、
    俺は眠れずにいた。

    少しでも油断することが怖かった。

    「ジョン、俺の親父は大丈夫なのか?
    あんな女と戦っているんだろ?」

    ジョンはノートPCのキーボードを叩きながら答える。

    「女はお兄さんだけでなく、
    お兄さんの家族にも侵入しようとしています。

    だから、お兄さんの守護は俺に任せてもらって、
    親父さんにはそちらの守護に専念してもらっています」

    俺は頭を抱えた。

    「なんてこった…。
    あの女、俺の家族にまで…」

    「大丈夫です。
    親父さんが守ってくれます」

    俺はコップの水を飲んだ。

    「なあ、ジョン。
    俺の守護霊が親父だってのは、
    なんとなく分かった。

    でも、お前の守護霊は居ないのか?

    ほら…、お前、
    身内が居ないって言っていたし…」

    「居ますよ。
    俺の守護霊は社長です」

    「はあ?お前、
    社長は生きているだろ?」

    「守護霊も悪霊も、
    生きているか死んでいるかは関係ありません。

    一言に霊と言うと、
    死んだ人を想像するかもしれませんが、
    違います。

    さっきも言いましたが、
    悪霊は自身の感情や意志に依存して存在し、
    守護霊は温かい記憶に依存して存在します。
    俺の中で社長の温かい記憶がある。

    だから俺の中で社長が形成され、
    俺の守護霊として存在しています。
    これは俺だけじゃなく、普通の人も同じです」

    俺はコップの中の水を見つめた。

    こいつに出会ってから、
    不可思議なことばかりを聞かされる。


    不意にチャイムの音が部屋に鳴り響く。

    俺は驚いてソファから滑り落ちた。

    「こんな時間に誰だろう?」

    ジョンが立ち上がり、
    玄関口に向かう。

    「おい、大丈夫なのか!?
    あの女じゃないのか!?」

    ジョンは微笑みながら、

    「大丈夫ですよ」

    と答えた。

    玄関を開けると、
    そこには社長が居た。

    社長は部屋の中に入るとソファに座り、
    タバコに火を点ける。

    「調子はどうかしら?
    若年性浮浪者モドキ君…」

    じゃ…若年性浮浪者モドキ君…。

    なんだか、
    この人に勝てる気が全くしない。

    ジョンがグラスにワインを注ぎ、
    社長に差し出す。

    「こんな深夜に、
    どういった御用件ですか、社長?」

    「ああ、
    あんたがメールで送ってきた計画書ね…、読んだわ。
    筋は悪くないわね」

    「有難う御座います」

    「でも、決定的な勘違いをしているわ」

    「勘違い?」

    ジョンの表情が曇る。

    「まあ、仕方ないわ。
    私もそれに気付いたのは、ついさっき。
    お前が気付かないのも無理は無い」

    「どういうことですか?社長?」

    社長は灰皿にタバコの灰を落とす。

    緊迫した雰囲気が部屋に充満していた。

    社長はワインの入ったグラスに口をつける。

    赤いワインの入ったグラスを、
    しなやかに扱う指の動きが印象的だった。

    「先刻、この若年性浮浪者モドキ君の、
    ドッペルゲンガーが現れたわね」

    「はい。
    俺も強制的に見せられました。
    俺も侵入されていたんです」

    ジョンは悔しそうな表情を浮かべる。

    「私はお前の現場実習開始当初に、
    安全装置として、
    若年性浮浪者モドキ君に予め防壁を仕込んどいた。
    万が一を考慮してだ。

    だが、それは突破され、
    あまつさえ奴はドッペルゲンガー作り出した。

    私の見立てでは、
    あの薄汚い女にそんな力は無かったはず。
    違和感を覚えないか、ジョン?」

    「確かに俺も驚きました。
    まさか社長のファイアーウォールが破られるなんて…
    でも、違和感と言うのはなんですか?
    何かあるんですか?」

    社長は深くタバコを吸い込んだ。

    「あの薄汚い女は、
    中心ではあるが本丸ではない。
    ということだ。

    私ですらさっきまで気付かなかったほどに、
    本丸は深いところに居る。

    恐らくそいつは、死人ではなく生き人の可能性が高い。
    しかも、かなりの腕前の持ち主だ。
    こいつは予想以上に根の深い問題だな」

    俺は黙って話を聞いていた。

    なんだか、
    話がとんでもない方向に向かっている。

    「そっちの本丸の方は私に任せろ。
    こいつは、若年性浮浪者モドキ君の依頼の範疇を越えている。

    タダ働きでやるのは嫌だが、仕方あるまい。
    放置するにしては危険すぎる。

    ただし、
    薄汚い女並びに3人の男は、
    ジョン、お前が責任をもって除霊しろ。

    いいか?浄霊しようとしなくていい。
    除霊することに専念しろ。
    分かったか、ジョン?」

    社長はそう言うと、
    グラスの中のワインをしなやかな手つきで飲み干した。


    社長が部屋から退室し、
    再び俺とジョンの二人きりになる。

    去り際に社長がこんなことを言った。

    「この件が終わったら、
    父親の墓参りに行けよ。

    寂しがっているぞ。
    あと、寝ろ。
    眼の下のクマが酷いぞ」

    そういえばここ最近、
    あまりにも色んなことが起きて、
    ろくに親父の墓参りにも行ってなかった。

    この騒動から無事に生きて帰れたら、
    親父の墓参りに行こう。

    俺はそう思った。

    俺はソファに座り、惚けていた。

    なんだか、とても疲れた。

    眠ることが怖かったが、
    睡魔には勝てなかった。

    俺はいつしか眠りに落ちていた。

    気が付くと俺は、
    どこかのビルの屋上に立っていた。

    「ここは?」

    深夜のビルの屋上に冷たい風が吹く。

    「ジョン!?おい、ジョン!?」

    大声でジョンに問いかけるも、
    返事は返ってこなかった。

    俺は辺りを見渡すと、
    視界の端に何か居ることに気付いた。

    その瞬間、
    頭に殴られたような強い衝撃が走る。

    俺は力なく、
    その場に崩れ落ちた。

    地面に倒れた俺を、
    見たことの無い巨躯の男が見下ろしていた。

    「なんだ…お前…?」

    男はしゃがみこむと、
    俺の髪を掴んだ。

    「悪足掻きするなよ。
    どうして素直に死なない?」

    男の後方にキチガイ女と医者、
    警察官、看護師の姿が見える。

    俺の全身の血が沸騰した。

    『私ですらさっきまで気付かなかったほどに、
    本丸は深いところに居る』

    俺は社長の言葉を思い出していた。

    こいつがそうだ。

    俺は直感的にそう思った。

    「テメェかぁ!!!テメェが俺を!!」

    男が俺の頭を地面に叩きつける。

    俺は頭に生温いものを感じた。

    それでも俺は男を睨みつける。

    許せなかった。

    どうしても俺をこの騒動に巻き込んだ、
    この男が許せなかった。

    「テメェだけは…テメェだけは絶対に許さねぇ!」

    男の表情が暗く曇る。

    「お前が俺を許す、許さないじゃない。
    俺がお前を殺すか、殺さないかだ。

    厄介なオカマも引き込んでくれたし、
    いい加減、俺も頭にきた。
    切れそうだよ。

    お前の家族もくれなきゃ、
    妹も納得しないそうだ。

    素直に死んどけば良かったのに、
    困ったことしてくれたな」

    男は歯軋りしながら、そう言った。

    俺は男の胸倉を掴んだ。

    「家族に手を出すことだけは絶対に許さねぇ!!」

    男は俺の腕を払いのける。

    「お前の父親も同じことを言っていたな。
    親子揃ってしぶといにも程がある。
    もういい。
    俺も本気でお前が殺したい」

    俺の後方から足音が聞こえる。

    振り返るとそこには俺が居た。

    ドッペルゲンガーだ。

    『お兄さん、あいつに絶対に触れないで下さい!!

    触れたら俺でも社長でも、
    お兄さんの命を助けられない!!』

    俺は全力で走った。

    俺は全力で走った。

    致死率100%と言われるドッペルゲンガーから逃げる為に。

    頼みの綱のジョンは居ない。

    周りに居るのは敵ばかりだ。

    狭いビルの屋上、
    逃げ場など無かった。

    俺は出入り口のノブを回した。

    鍵がかけられている。

    ビクともしない。

    後方には俺が居る。

    俺に触れたら俺は死ぬ。

    「おいおい、もういいだろう!?
    手間取らせんじゃねぇよ!!」

    巨躯の男が、
    苛立つ感情を剥き出しにして怒鳴る。

    俺が迫ってくる。

    俺はこの時、必死に考えた。

    逃げる方法を。

    助かる方法を。

    俺は屋上のフェンスを乗り越えた。

    「これは夢だ。
    夢なんだ。
    現実じゃない」

    俺は自分に言い聞かせた。

    目前には奈落の光景が見える。

    思ったより高い。

    後方を振り返ると、
    俺がゆっくりと歩いてくる。

    その時、
    不意にキチガイ女と眼が合った。

    女は笑ってやがった。

    俺の中に怒りがこみ上げて来る。

    生きるんだ。

    俺は絶対に死なない。

    絶対に生きるんだ。

    俺は雄叫びを上げた。

    飛び降りてやる。

    ここから飛び降りてやる。

    「ヘイ!!確かにここは現実じゃねぇけどよ!!
    落ちればそれなりに痛いぜ!?
    お前、それに耐えられるのか!?」

    巨躯の男が俺に問いかける。

    「絶対にお前だけは許さないからな」

    俺は、そう言い捨てると、
    ビルの屋上から飛び降りた。

    激痛。

    それを表現するのに、
    この言葉以外に思いつかない。

    ビルから飛び降りた俺は脚から落下し、
    地面に頭を叩きつけられた。

    まるで蛙のように惨めに地面にへばりつく。

    俺の周囲に赤い血が広がる。

    意識がなくならない。

    今まで体験したことの無いような激痛が
    はっきりと認識できる。

    死にかけの蛙が、
    ひくつきながら痙攣するのと同様に、
    俺の体は小刻みに揺れた。

    俺の視界の先に、
    ビルの出入り口から出てくる俺が見えた。

    「来る…な…」

    消え入りそうな蝋燭の如く俺は呟いた。

    これが精一杯の抵抗だった。

    容赦なく俺は俺に近づき、
    俺の目前までやってきた。

    俺は俺を見下ろしていた。

    体は痛みに支配され、
    もう逃げることもできない。

    俺はもう一人の俺を、
    力の限り睨んだ。

    俺は俺に、
    負けたと思われたくなかった。

    もう一人の俺はしゃがみこむと、
    俺の背中に手を置き、

    「見いつけた」

    と言った。

    溶け込むように、
    俺が俺の体内に入ってきた。

    完全な同化。

    奴の心と俺の心が一つになる感覚。

    俺は俺に溶け込み、
    俺の心を支配した。

    この瞬間、ジョンが

    「ドッペルゲンガーに触れられると確実に死ぬ」

    と言った意味が分かった。

    暗闇が全身に拡がる。

    俺は終わった。

    終わったんだ。

    心が引き裂かれるような、
    とてつもない暗闇に俺は放り出された。

    負の感情が俺の中に溢れ出す。

    俺は朦朧とした。

    生きることに希望なんて何一つとしてない。

    この世に居たってどうしようもない。

    死んだほうが良い。

    ただ死にたい。

    本当にそれだけだった。

    なんでも良い。

    死ねるならロープでもガソリンでも俺にくれ。

    自殺がしたい。

    自殺をさせてくれ。

    なんでもする。

    だから俺を自殺させてくれ。

    俺はドッペルゲンガーに完全に支配されていた。


    「お兄さん」

    朝、ジョンに呼ばれて俺は眼が覚めた。

    全身が汗で濡れている。

    俺は周囲を見渡した。

    ホテルの一室。

    ここは俺が居たホテルの一室だ。

    俺は全身を弄った。

    どこにも異常はない。

    ジョンがコーヒーを差し出す。

    「大丈夫ですか、お兄さん?」

    俺は確かにドッペルゲンガーに触れられた。

    でも、
    今は死にたいとは思わない。

    俺は助かったのか?

    現実を俺は把握出来ずにいた。

    「混乱しているみたいですね、お兄さん。
    もう大丈夫です。
    ようやく俺にも見えました。
    あいつがお兄さんの敵なんですね」

    ジョンの言葉に俺は驚いた。

    「どういう…ことだ、ジョン?」

    「お兄さんには申し訳ないと思ったのですが、
    お兄さんのファイアーウォールを一時的に弱めました。

    案の定、敵の本丸はお兄さんに侵入してきた。
    狙い通りです」

    俺はジョンの言葉の意味を理解し切れなかった。

    「じゃあ、わざとアイツを誘き寄せたのか?」

    「そうです。
    お兄さんには囮になってもらいました。

    勿論、お兄さんの安全が第一です。
    その為の対策をした上で実行しました」

    なにがなんだか、
    俺にはさっぱり理解出来なかった。

    俺はコーヒーを一気に飲み干した。

    「冷静になろう、ジョン。
    俺に何をしたって言うんだ?
    説明してくれ。
    何をしたんだ?」

    ジョンはタバコに火を点けた。

    「敵はお兄さんに対して分身、
    ドッペルゲンガーを使ってきました。

    これは高度な技術を要します。
    敵は相当な腕の持ち主です。

    でも、社長はこう推理しました。

    『敵は、自分と同等の力の持ち主と出会ったことが無い』

    お兄さんに対する敵の陰湿で強引なアプローチから、
    敵は力こそA級でも、
    経験は浅い人間だと推理したんです。

    そこで罠を仕掛けました。

    敵がお兄さんのドッペルゲンガーを使うなら、
    こちらもお兄さんのドッペルゲンガーを使う。

    敵も、
    自分以外にドッペルゲンガーが作れる人間が居るとは
    思わなかったのでしょう。
    完全に疑うことも無かったですね」

    ジョンは微笑みながらそう言った。

    「ドッペルゲンガー?どこが?どこら辺が?
    何がドッペルゲンガーなんだ?」

    俺は尚もジョンに問いかける。

    訳が判らない。

    「お兄さんが敵の作ったビルの屋上に立った時点から、
    お兄さんは社長の作ったドッペルゲンガーです。

    流石に意識のない人形だと疑われるので、
    半分ほどお兄さんの意識を入れました。

    お兄さんには、
    怖い思いをさせてしまいましたけど、

    おかげで、
    俺と社長が見ていることに、
    全く気付かれませんでした。
    いけますよ。

    社長が本丸の男の捜索に乗り出しました。
    ここからが探偵の腕の見せ所です」

    俺は唖然とした。

    そうならそうと、
    前もって言ってくれ。

    昼、俺は一枚の食パンを前に困惑していた。

    ここ暫くろくな物を食っていないのに、
    食欲が全く湧かない。

    一枚の食パンですら今の俺には重い。

    「なあ、ジョン。

    さっき、
    『社長が本丸の男の捜索に乗り出した』
    って言ったよな?」

    スパゲティを頬張りながらジョンは答える。

    「ええ。
    社長は朝の便で北海道に向かいました」

    「北海道?」

    「社長があの男に侵入して、
    居場所を特定したんです。

    恐らくあの男も、
    今頃は泡食っているでしょうね。
    絶対に社長からは逃げられませんよ」

    「なあ、ジョン。
    アイツはやっぱり生きた人間なのか?
    あんなことが人間に出来るものなのか?」

    ジョンはスパゲティを平らげると、
    カレーライスに手をつけた。

    「俺も驚きました。
    社長以外にあんなことが出来る人間は初めて見ましたよ。

    あれほどの力の持ち主が、
    野に放たれていたなんて恐ろしい限りです」

    ジョンはカレーライスを平らげると、
    次はカツ丼に手をつけた。

    異様に次から次へとジョンは食いまくる。

    「おい、ジョン。
    食いすぎじゃないか?」

    食欲の無い俺からすると、
    ジョンの食う姿が異常に見える。

    「これからの作業は体力要りますから、
    食っておかないと。

    夕方までに、
    社長が本丸の男を押さえます」

    つまり…、
    クライマックスですよ、
    お兄さん」

    そう言ってジョンは優しく微笑んだ。

    それを聞いた俺は、
    食パンにバターを塗り平らげた。

    『クライマックス』

    ジョンはそう言った。

    社長が本丸の男を押さえ、
    ジョンが俺の除霊をする。

    ついにあの女との戦いに、
    終止符が打たれようとしていた。

    俺は吐きそうになりながらも、
    無理やり胃の中にメシを詰め込んだ。

    生きるか死ぬかを超越して、
    俺は奴らにだけは負けたくなかった。

    夕方、
    ジョンは俺をベッドの上に寝かせた。

    「これから何が起こっても、
    絶対に気持ちだけは負けないで下さい。
    お兄さん」

    ジョンの言葉に俺は強く頷いた。

    気持ちだけなら、
    俺は絶対にあんな奴らに負けない。

    ジョンは時計を見ながら深呼吸をすると、

    「そろそろですね」

    と言った。

    「お兄さん、
    次に俺の携帯が鳴った時が合図です。

    俺は一気にお兄さんに侵入します。

    恐らく後ろ盾を失った女は、
    激しく暴れるはずです。

    俺がお兄さんの所に辿り着くまで、
    持ち堪えて下さい」

    俺はジョンの手を握った。

    「信じているからな」

    ジョンは真っ直ぐに俺を見つめながら頷いた。

    その瞬間、
    ジョンの携帯の着信音が部屋中に響き渡った。


    気が付くと俺は、
    見覚えの無い洋館らしき建物の中で、
    木製の椅子に座らされ、
    縛り付けられていた。

    目の前には下った階段が見える。

    俺は建物の中を見渡した。

    どこも古びた感じがする。

    洋館の内部には、
    夢の中のような違和感が在った。

    確かに以前より弱い。

    俺はゆっくりと眼を閉じた。

    ジョンが俺を助けてくれる。

    そう信じていた。

    俺の後方に人の気配を感じた。

    「キチガイ女か?」

    俺は問いかけた。

    すると後方の人の気配は、
    這うように俺の首に腕を巻きつけてきた。

    俺は確信した。

    キチガイ女だ。

    「お前が何故こんなことをするのか、
    今はもうどうでもいい。

    俺はお前から逃げることばかりを考えてきた。
    本当に怖かった。

    でも、俺はもう一人じゃない。
    親友が出来た。
    もう、お前は怖くない」

    キチガイ女は、
    強く俺を抱きしめた。

    「一緒に居たい…」

    俺は頭を横に振った。

    「俺は生きている。
    お前は死んでいる。
    この差は絶対に埋まらない。

    お前にはお前の欲望があるのかもしれない。
    俺はそれに応える訳にはいかない。
    俺は生きたいんだ」

    俺とキチガイ女の間に静寂が流れる。

    キチガイ女は俺に抱きついたまま、
    静かに泣いていた。

    泣いているキチガイ女に、
    以前のような気味の悪さは無かった。

    キチガイ女の声は、
    前に聞いた声と変わらない。

    確かにキチガイ女だった。

    それでも不思議なくらいに、
    以前とは印象が違う。

    俺は不思議だった。

    後ろ盾を失って暴れるかと思いきや、
    キチガイ女は俺に抱きつき、
    静かに泣いている。

    「お前…もしかして…」

    俺はそこまで言って言葉を呑んだ。

    俺にはその先の言葉が言えなかった。

    その時、洋館の玄関が静かに開く。

    そこにはジョンが居た。

    「お兄さん、迎えに来ました」

    ジョンはそう言うと階段を昇り、
    キチガイ女を睨む。

    キチガイ女は何もすることなく、
    俺からゆっくり離れると、
    ジョンを素通りして階段を静かに降りていった。

    階段の下で立ち止ったキチガイ女は、
    ゆっくりと振り返り俺を見つめた。

    女の顔に俺は驚いた。

    以前のような禍々しさは無く、
    キレイな顔だった。

    今までとは違う、
    少女のような切なく悲しい表情が、
    俺の眼に焼き付いた。

    女は踵を返し、
    振り返ることなく玄関の向こう側に消えていった。

    「どういうことだ、あの女…」

    俺は呟いた。

    想像した展開とはあまりにも違う幕切れだった。

    「あの女の後ろ盾も、
    あの3人も消えていなくなりました。
    もう勝ち目は無いと諦めたのでしょう。

    あの女も、お兄さんの中から完全に消えました。
    俺たちの勝ちです」

    ジョンは、
    この戦いの勝利宣言をした。

    しかし、
    俺の中に歓喜の感情は無かった。


    俺を椅子に縛り付けていた拘束具をジョンは外した。

    椅子から立ち上がった俺の体は、
    不思議なくらいに軽かった。

    俺とジョンは連れ添い、
    ゆっくりと階段を降りた。

    玄関の先には、
    眩しい程に光が降り注いでいた。

    まるで希望の光だ。

    俺たちは玄関の向こう側に進んだ。

    その時、
    俺の視界の端に人影が見えた。

    振り返ったその先には、
    俺の良く知る人物が立っていた。

    「親父…」

    親父は静かに頷くと、
    本当に優しく微笑んだ。

    俺の眼からは止め処も無く涙が溢れた。

    親父の優しい笑顔に涙が止まらなかった。

    俺は親父の前で子供のように号泣した。

    本当に子供のように…。

    「お兄さん」

    俺はジョンに呼ばれて目覚めた。

    地上20階に位置する豪華なホテルの部屋。

    俺たちは戻ってきた。

    「ああ…、長いこと悪い夢を見ていた気分だ。
    でも…最後は良かったよ…。
    ジョン、ありがとうな」

    「いえ、俺だけじゃありません。
    社長や親父さんも頑張りました。
    勿論、お兄さんも。

    あの囮作戦の時、
    お兄さんは敵の手から逃れる為に、
    ビルから飛び降りましたよね。

    現実じゃないと分かっていても、
    あんなことを普通は出来ません。

    しかも、
    敵の本丸に向かって啖呵まで切って。
    そのお兄さんの勇気があればこそですよ」

    「いや、俺は…」

    そう言って俺は黙り込んだ。

    俺は一人だったら、
    とっくに死んでいた。

    そして、
    今も情けないことを考えていた。

    「なあ、ジョン。
    あの女のことなんだが…」

    ジョンは俺にコーヒーを差し出した。

    「言いたいことは判ります。
    最後に俺もあの女に侵入しましたから…。

    でも、気にしないで下さい。
    全部、終わったんです」

    俺はコーヒーを飲みながら、
    窓の外に広がる夜景を眺めた。

    切ない思いを振り切るように、
    俺は夜景を眼に焼き付けた。

    その後、
    俺は安堵からか高熱を出し、
    病院に緊急入院した。

    3日間程高熱に苦しんだ後、
    俺は奇跡的な回復を遂げ、

    折れていた左腕の骨も、
    医者が眼を丸くする程の速さで回復した。

    最悪だった体調も完全に復調し、
    俺は以前の健康な体を取り戻した。

    入院中、
    ジョンが何度も見舞いに来てくれた。

    こいつは本当に良い奴だ。

    最悪と言える騒動の中で、
    ジョンと出会えたことだけは神に感謝したい。

    後日、
    俺は改めて社長にお礼を言いに行った。

    相変わらずのヒステリックぶりで、

    俺が感謝の言葉を述べると、

    「感謝の言葉より感謝の金をよこせ!」

    と言ってきた。

    ある意味予想通りだったので問題はない。

    それから社長に、

    「絶対に父親の墓参りに行けよ」

    と言われた。

    俺は久しぶりに、
    家族揃って親父の墓参りに行った。


    久しぶりに来た親父の墓は、
    土埃で汚れていた。

    俺は予め用意していた掃除用具を取り出し、
    念入りに親父の墓を磨いた。

    「家族を助けてくれてありがとう。
    守ってくれてありがとう」

    そんな気持ちを込めて念入りに磨いた。

    母も姉も必死に墓を磨く俺を眺めて、
    何故そんなに一生懸命に磨くのかと不思議そうにしていた。

    俺は母と姉の二人にも掃除道具を渡し、
    墓磨きに協力してもらった。

    心なしか、
    親父の笑い声が聞こえた気がした。

    その後、
    俺たちは家族でレストランに入った。

    久しぶりの家族団欒だった。

    食後に俺はトイレに入った。

    入り口を開け、
    トイレの中に入る。

    そこはビルの屋上だった。

    驚いた俺は周囲を見渡す。

    俺の視線の先には、
    あの騒動の本丸の男が、
    フェンスに寄りかかりながらタバコを咥えていた。

    「よお」

    気軽な挨拶をすると男は俺に近づく。

    「俺に近付くんじゃねぇ!!」

    俺は怒鳴った。

    「はは、怖いねぇ。
    そんなに怒鳴るなよ。
    なにも危害を加える気はねぇよ」

    男は尚も俺に近づく。

    「なんのつもりだ!?
    いったい、何しに来た!?」

    怒鳴る俺を無視して、
    男は俺の眼前に立つと、
    思いがけない言葉を発した。

    「事の顛末を知りたくないか?」

    「事の顛末だと?」

    男は俺を嘲るように微笑んだ。

    「心配するな。
    あのオカマ社長の許可は取ってあるよ」

    男は俺の胸に拳を当てた。

    すると男の拳は何の手応えも無く、
    俺の体をすり抜けた。

    「ほらな。
    俺からお前に何かすることは出来ないんだよ。

    あのオカマにお前は完全にガードされているし、
    俺もあのオカマに能力の根源を握られている。

    今の俺は、
    オカマに金玉抜かれた腑抜けなんだよ」

    俺は後ずさりをした。

    「俺に何を聞かせたい?」

    男はどこからか椅子を取り出し、
    腰掛けた。

    「さっきも言ったろ?事の顛末さ。
    どうして俺と妹がお前を狙ったのか。
    何故、殺そうとしたのか。

    お前には聞く権利があるんだよ」

    確証は無かったが、
    男に害意はないように思えた。

    確かに俺も、
    この騒動の動機と理由が知りたい。

    俺の心にある霧の正体が知りたかった。

    「分かった。
    なら聞かせてくれ。
    事の顛末を」

    「そうこなくちゃな。
    わざわざ、来た甲斐が無い」

    そう言うと男は、
    タバコを地面に捨て足で揉み消した。

    「初めにお前に出会ったのは、
    お前がバイクで小樽に来たときだ。

    確かツーリングだっけ?
    お前はそれをやりに来たんだ。

    俺はたまたま小樽に用が有って来ていた。
    その時、妹の奈々子がお前に目をつけたんだ。

    何故なら、
    お前が奈々子にとって羨ましい存在だったからだ。

    まるで光に群がる虫のように、
    奈々子はお前に惹き寄せられた」

    俺は困惑した。

    「何故俺なんだ?
    俺の何が羨ましかったんだ?」

    「お前の中に、
    温かい家族の繋がりが見えたのさ。

    それが奈々子には、
    心底羨ましかった。

    俺たちの家族はな、
    言っちゃ何だが、
    クソの肥溜めそのものだった。

    特に奈々子は生前、
    そうとうあのクソ親父に責められた。

    口に出すのもおぞましいぜ。

    実の父親が娘を性の対象にするなんてよ。

    しかも親父は極端なサドでよ。
    ひでぇもんだった。

    だが、俺も人のことは言えねぇ。

    苦しむ妹を、
    見て見ないふりしたんだからな。

    母親はとっくの昔に死んで居なかった。

    だから妹にとっちゃ、
    俺は唯一の頼りだったんだ。

    それを俺は見捨てた。

    面倒臭かったんだよ、
    正直言って。

    俺にはどうでもいいことだった。

    奈々子にとっては絶望的だったろうよ。

    アイツは一人で警察に行き、
    助けを求めた」

    「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

    俺は男の話を遮った。

    「気持ち悪くなったか?
    そうだろうな。
    クソの肥溜めの話だ。
    無理も無い」

    男はポケットからタバコを取り出し、
    口に咥えた。

    さっきまで人を嘲るように笑っていた男の顔は、
    深海のような冷たい表情だった。

    話の内容よりも俺は、
    この男の表情に恐怖を感じていた。

    「いいか?続けるぜ?」

    俺は無言で頷いた。

    なるべく男の顔を見ないように気を付けた。

    「奈々子は警察に助けを求めたが、
    全て無視された。

    親父はクソだが、
    精神科医としてはエリートだった。

    警察にも協力していたし、
    署の幹部とも仲が良かった。

    奈々子は対応した警察官に、
    人格ごと全てを否定されて追い返されたんだよ。

    更に絶望した奈々子は、
    遂に精神を病んで、
    精神病院に入院した。

    しかも、
    親父の病院にな。

    そこでも奈々子は酷い扱いを受けた。

    警察に訴えた奈々子を、
    親父は許さなかった。

    奈々子の担当の看護師に言いつけて、
    奈々子を毎日のように暴行させた。

    信じられるか?
    それをやらしたのが実の父親なんだぜ?

    そして奈々子は自殺した。
    どこからか持って来たロープで首を吊ってな。
    そこで俺は初めて泣いたよ」

    黙って俺は男の話を聞いていた。

    男の家族と俺の家族。

    まるで正反対の家族だった。

    「奈々子は自殺した後、
    この世を彷徨い、俺の所に来た。

    奈々子には才能はあったが、
    俺のような能力はなかった。

    だから、
    俺に復讐の話を持ちかけたんだ。
    俺に協力しろってな。

    勿論、
    それを俺は断ることも出来た。

    だが俺は、
    奈々子が死んでから初めて気付いた感情に逆らえなかった。

    俺は奈々子を愛していた。
    自分勝手な話だがな」

    「俺は奈々子に協力し、
    親父と警察官、
    それと看護師を殺した。

    俺はそれで奈々子が満足すると思っていた。

    だがそれは違った。
    俺は霊というものに対する知識を、
    中途半端に持っていたに過ぎない。

    どんなに復讐を遂げても、
    奈々子はもう死んでいる。

    俺の目の前に居る悪霊と化した奈々子は、
    奈々子であって奈々子じゃない。
    ただの情念の塊だ。
    情念の塊が満足して消えることなんて絶対に無い。

    俺は落胆したよ。

    親父も含めて3人も殺したのに、
    ただ奈々子の形をした悪霊が増大しただけだった。

    そんな時にお前が現れた。

    ただの復讐の情念の塊だったはずの奈々子が、
    お前に魅かれた。

    俺にとっては驚きだったよ。

    もしかしたら、
    と変な希望まで持っちまった。

    だが、
    奈々子は死んでいる。
    普通の生き人とは一緒に居られない」

    「それで俺を殺そうと思ったのか?ふざけるな」

    「ああ、今思えば愚かもいい所だ。
    だが、俺にとっては希望だった。

    お前と居れば、
    奈々子は奈々子として戻れるんじゃないか、とな」

    男の話に俺は納得がいかなかった。

    「ただ殺すだけなら、
    お前には何時でも俺を殺すことは出来たはずだ。
    何故すぐにやらなかった?
    何故あんな回りくどいことをする?」

    俺は男に問いただした。

    男の表情に変化はない。

    「単純にすぐに殺しても、
    霊はこの世に留まらない。
    すぐに消えてしまう。

    苦しめて、追い詰めて、
    不条理を与えることで、
    霊はこの世に強い情念を残し、
    長く留まる。

    お前には未来永劫、
    奈々子と一緒に居て欲しかった」

    男の言葉に、俺は全身が震えた。

    「北海道から帰ったお前は交通事故を起こし、
    重症を負った。
    あれも俺の仕業だ。

    お前の会社の人事部長の脳に侵入して、
    解雇通知を書かせたのも俺だ。

    左腕の骨折だけ治りが遅かっただろ?
    あれも俺だ。
    その他諸々。

    お前には色々、仕掛けたな」

    俺は震える拳を押さえた。

    「殴っても良いんだぜ?
    そこで我慢するのは、
    元サラリーマンの悲しい性か?」

    俺は男の左頬を全力で殴った。

    男は椅子から転げ落ち、
    地面に平伏した。

    「まあ、一発くらいは殴らせないとな…」

    男はそう言うと椅子を元の位置に戻し、
    再び腰掛けた。

    俺は怒りで全身が熱くなっていた。

    「落ち着けってのは無理な話かもしれないが、
    話は最後まで聞け。
    俺はお前に感謝しているんだ」

    「感謝だと!?」

    「最後にお前が奈々子と一緒に居たときの話だ。

    あの時、
    俺はオカマの部下に押さえつけられ、
    床に平伏していた。

    事の終わりを見届けろとオカマに言われ、
    俺はお前たちを見ていた。

    あの時…、
    俺は眼前の光景に我が眼を疑った。

    俺は奇跡を見ていた。

    ただの復讐の情念の塊だった奈々子は、
    そこには居なかった。

    お前も見ただろ?
    あの奈々子が本当の奈々子だ。

    生前の頃の奈々子だったんだ。
    アイツはただのか弱い女だった。
    あれが本当の奈々子の姿だったんだ。

    俺は泣いた。
    奇跡を前に、
    俺は子供のように泣く事しか出来なかった。

    最初は光に群がる虫のように、
    奈々子はお前に魅かれただけだった。

    それが何時しか、
    本当にお前のことを好きになっちまっていたんだ」

    俺は震える拳を降ろし、
    黙り込んだ。

    「お前も薄々気付いていたんじゃないか?」

    そう言う男の顔からは、
    深海のような冷たさが消えていた。

    最後に見たあの女の顔を、
    俺は思い出していた。

    気が付くと、
    俺の眼からは涙が流れていた。

    「泣いてくれるのか?」

    男はそう言うと静かに俯いた。

    「お前は優しい男だな。
    あんな事をした奈々子のために泣いてくれるなんてよ。

    お前は本当にしぶとい奴だった。
    俺はお前の勇気に驚かされ続けたよ。

    そして、
    家族の愛情に恵まれた、
    優しい男だ。

    今なら奈々子の気持ちが俺にも判る。
    俺たちは愛情に飢えていた。
    本当にお前が羨ましい。

    奈々子は生前、
    誰かを好きになることなんて一度もなかった。

    こんな形じゃなく、
    奈々子が生きている間にお前と出会えていたら…。

    お前のように俺にも勇気があれば、
    こんなことにはならなかった」

    俺は泣いた。

    あの女を思い、泣いていた。

    あの女は敵だ。

    あの女が俺に何をしたのかは忘れない。

    それでも、
    俺の眼から流れる涙は止まらなかった。

    男は椅子から立ち上がると、
    天を仰いだ。

    「俺も奈々子も、
    散々人を苦しめた。

    天国には行けねぇ。

    奈々子も地獄に落ちたよ。

    アイツは生まれ変わっても、
    また辛い人生を送る。

    でもよ…、
    もし、お前がアイツに再び出会ったなら…。
    その時は…」

    男は踵を返し、背を向ける。

    「…自分勝手にも程があるか…」

    男は静かにうなだれる。

    その背中には、
    悲しみが色濃く映し出されていた。

    俺は事の顛末を知った。

    俺には泣くことしか出来なかった。

    男とあの女の悲しい過去。

    俺の知らない家族の話。

    全てが俺の胸に突き刺さり、
    涙を溢れさせていた。

    俺はただただ悲しかった。

    「じゃあな」

    男はそう言うと、
    俺から離れていく。

    「これから、
    お前はどうする気なんだ?」

    俺の問いに男は足を止める。

    「俺には初めから守護霊なんてものはいない。
    自分の身は自分で守ってきた。

    だが、俺はもう能力を封印する。
    俺がお前を苦しめたように、
    今度は俺が苦しむ。

    もう、お前とは会うこともねぇ。
    俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ」

    そう言うと男は、
    俺の目の前から消えた。

    俺はレストランのトイレに戻ってきていた。

    トイレの洗面所で泣き腫らした顔を洗った。

    俺はあの男の言葉を思い出していた。

    『俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ』

    あの家族に救いは訪れないのだろうか。

    一度人は道を外すと、
    元には戻れないのだろうか。

    俺は世の無常を感じていた。

    トイレから出た俺は、
    家族の待つテーブルに帰ってきた。

    幸せな光景。

    あの家族は、
    この光景を一度も見たことは無いのだろうか。

    俺の胸は切なさでいっぱいだった。

    「ちょっとぉ、なにボーとしてるのよ」

    姉の声に俺は我に返る。

    「ああ、悪い。
    ちょっと考え事しててさ」

    「さっきから、あんたの携帯、
    鳴りっ放しだったよ。

    なんか、
    出ても悪いかなぁと思って放置してたけど」

    俺は自分の携帯を見た。

    確かに5件も着信履歴が在る。

    相手はジョンの携帯だった。

    何の用だろうか。

    俺はリダイヤルした。

    「もしもし。
    お兄さんですか?」

    「ああ、なんだ、ジョン?
    何回も着信履歴が入っていたけど、
    急ぎの用事か?」

    「いやぁ、
    俺がお兄さんに対して、
    急ぎの用事って訳じゃないんですけどね。
    社長が今すぐ事務所に来いって」

    「社長が!?」

    俺は携帯を切ると家族に謝り、
    レストランを飛び出した。

    社長を待たせること程怖いことは無い。

    全力で走り抜け、
    俺は社長の待つ探偵事務所に辿り着いた。

    「ご…御用件は…はぁ…はぁ…なんですか、
    社長…はぁ…はぁ」

    社長はタバコを灰皿に押し付けた。

    「はぁはぁ気持ちが悪い!先ず呼吸を整えろ馬鹿!」

    俺の目の前に一杯の水が差し出された。

    「お兄さん、飲んでください」

    ジョンだった。

    「ああ…、ありがとう。ジョン」

    ジョンは優しく微笑んだ。

    ジョンのくれた水を俺は一気に飲み干し、
    呼吸を整えた。

    「良いか?
    とりあえず、この書類に眼を通せ」

    社長の差し出した書類を俺は見た。

    そこには『内定通知書』と書かれていた。

    「これは…、なんですか、社長?」

    俺は唐突な書類の内容に戸惑った。

    「見て判らないか?
    お前を我が社に採用すると言っているのだ。

    お前は未だに無職なのだろう?
    私がお前を雇ってやる」

    社長の言葉に驚いた俺はジョンの顔を見る。

    ジョンは笑顔でサムズアップをしていた。

    「え!?いや、嬉しい!けど…。

    ど、どういうことですか、社長?
    突然で…」

    「戸惑っているのか?」

    社長は妖しく微笑む。

    「実を言うとな。
    お前の敵だった、
    あの男に頼まれたのだ」

    「あの男に!?」

    俺は驚いた。

    あの男が社長に頼みごとを?

    「私も驚いたよ。
    我が社の口座にいきなり1000万円も振り込んで、
    お前を雇ってくれと頼み込んできた。

    せめてもの罪滅ぼしとでも思ったのか。
    それともお前が気に入ったのか。

    1000万円もあれば、
    どんなペーペーでも一流に育つ。

    私は快諾したよ。

    その気持ちを受け取るかどうかは、
    お前次第だがな」

    俺は迷うことなく、

    「御願いします」

    と言い頭を下げた。

    「お前には霊能の才能が欠片しかないから、
    探偵として雇うことになる。

    言っとくが、甘くは無いぞ。
    覚悟しておけよ?」

    そう言うと社長は微笑んだ。

    ジョンも笑っていた。

    俺は探偵として生きていくことを決めた。


    俺の物語はここで終わる。

    探偵として歩み始めた俺には、
    様々な出来事が起きる。

    でも、
    それはクライアントの物語。

    守秘義務の関係上、
    これ以上は書けない。

    あの騒動で俺は強くなった気がする。

    今でも時折、
    あの女のことを思い出す。

    あの女は、
    今もどこかで苦しんでいるのだろうか?

    もし、
    再びアイツと出会ったなら…俺はその時…
    アイツを助けてやりたいと思う。

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    ぼなよちる うのぃづち らむぎんづ ふざえれま 
    づづねらぴ ゎらびじく やぱみゅり えぢぺじが 
    ぽっふぶべ わのもさゃ あぁまびぜ べちぬりぐ 
    ごぉっじえ てさぃあぺ ばひぼへく ずぶぽばゆ 
    うぽぃれち ゆかぶりは しきぉこぴ でひむめび 
    ハカッヶニ ネホラソパ ゥヌサメギ ルボプョソ 
    ヶビヮォズ クホブタゴ ニボガザソ ヴオカグメ 
    ケヤソベロ ヶマシブザ テレニヌヶ ザユワレデ 
    ェゴビヤヮ ジフイキジ スレヨシハ ヤコタヤコ 
    ガロクシヴ プピヴロヅ ノゾグケヤ アトゥレガ