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コンパクトミラー
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学生だった当時、 某サークルでの会報作成に忙殺されていた頃の話だ。 夕暮れのサークル室、 同期のY子と二人きりで与太話をしながら作業を進めていたのであるが、 どんな経緯を経たのかは失念したものの、 やはり話はそっちの方向へと…。 「小学校の頃なんだけど、 私、変な目に遭っちゃってさ…」 彼女の実家は信州だったか甲州だったか、 とにかくその辺りだとの事。 勿論彼の地でも神社の縁日ともなれば 沿道に露店が軒を連ねるワケで、 その晩は当然お祭り好きのY子も兄と連れだって 賑やかな人混みの中にいた。 さっそく輪投げに興じ始めたY子の兄であったが、 何度投げても狙った的に嫌われるばかりで、 持ち輪はどんどん少なくなってゆく。 そして業を煮やした挙げ句に気合いを込めて放った最後の一投は、 ようやく彼の執念が通じたものか、 狙いは外したとは言え とある景品の台に見事すっぽりと収まった。 「つまんねえなあ。 こんなの、俺使わねえからお前にやるよ」 狙っていた超合金のおもちゃを取りそこねて、 いささかご機嫌斜めの兄がY子に手渡したその景品とは、 『ひみつのアッコちゃん』の商売道具でお馴染みの、 丸形コンパクトミラーだったのである。 「やたっ!ありがとう兄ちゃん」 「知らない誰かが使った鏡を貰うのって、 お婆ちゃんあんまり感心しないねえ」 家に戻って家族に件の戦利品を見せるや否や、 彼女の祖母は眉を顰めてそう呟いた。 そのコンパクトは直径6㎝程度の年季物ではあるものの、 いわゆる『いい仕事してますね』的な完成度を誇る、 素人目に見ても極上の一品だったと後のY子は述懐する。 微細なエングレーブで縁取られたその上蓋の面には、 薄紅色に咲き誇る夾竹桃の周りを舞う蝶の群れが、 精緻を尽くした螺鈿細工の技法により美しく描かれている。 そして金粉の散らされた裏蓋には、 ススキの穂を思わせる放射状の飾り絵の中、 元の持ち主の名前と思しき草書体の文字が彫られていた。 何れにしろ、 およそ露店の香具師が 子供騙しのアイテムとして扱う様な代物では無い。 信心深かったとのY子の祖母は、 なおも心配げに小さく囁く。 「今からでも遅くないよ。 返しに行った方がいいんじゃないかえ?」 「いやだもん。 古道具屋さんから買ったと思えばいいじゃない!」 翌日からY子は そのコンパクトを肌身離さず持ち歩き始めたと言う。 学校では先生に見つからぬ様に 休み時間ともなればこっそりとそれを取り出し、 鏡に映る己の顔を飽きもせずうっとり見つめ、 放課後はそれを繰り返し友達に見せびらかして…という具合。 照れくさ気に頬を掻きながらの彼女曰く、 「ちょっと大人になったかな? みたいな気にさせてくれたあのコンパクトに、 何て言うか、情が湧いちゃってねえ」 とか。 やがてY子がコンパクトの異変に気づくのには、 さほどの日数を要しなかった。 「あれっ?」 その日もいつも通り鏡の中の自分に見惚れていた彼女であったのだが、 ひと重で自他共に認めるドングリ目玉である自分の目がほんの一瞬、 二重で切れ長のそれに見えたのだと言う。 そしてまたある時は 自分の背後に吊されているカレンダーの文字が、 普通であれば反転されるはずであるのに、 当たり前の表示のままで鏡には映っていたりして。 何れの場合も共通するのは、 ハッとして鏡を二度見した時には いつも同様に普通の映り具合に戻っているという事であった。 一度であれば見間違いと言う事もあろう。 しかしそれが二度三度と続くとなると、 さすがの彼女も一抹の不安を覚えざるを得なくなると言うものである。 その他にも、 確かに洗面台脇に置いたはずのコンパクトが、 顔を洗い終えて見ると玄関の下駄箱の上に鎮座していたり、 パチンと閉じたかと思えば、少し目を離した隙に、 バネ仕掛けの蝶番でも無いその蓋が、 囲炉裏で炙ったホタテの如く何故かパックリと開いていたり。 にも関わらず、 Y子はコンパクトを手放す気にはなれなかったそうである。 そう、まるで何かに魅入られたかの様に…。 そしてある夜、 決定的な出来事が起こった。 ここ数日体調が思わしくないものの、 それでも就寝前にいつもの如くコンパクトを開いて 鏡の中の自分と対面するY子。 「あたし寝るよ。 あんたもおやすみ…」 そして蓋を閉じかけたその時、 上蓋と下蓋の隙間で何かが瞬いた様に彼女には思えた。 「え?」 閉じかけていた蓋を再び開けたY子はコンパクトに顔を近づけ、 青光りする鏡面を再びまじまじと覗き込む。 その瞬間彼女は見たそうだ。 鏡の中の自分の唇が、 本来無いはずの八重歯を覗かせて ニヤリと薄気味悪く微笑んだのを…。 「パリンッ!」 後の記憶は霧中の如く漠然としているために 彼女には思い出せない。 ただどこか遠いところで、 「タイヘンダ!カアサン! タオル ト ホウタイ ダア! アト ハヤク イシャ…」 「ダカラ イッタンダヨ! アンタ ガ ヘンナモノ ヲ コノコ ニ アゲルカラ…」 「ンナコト イッタッテ オ オレ シラネエヨオ…」 そんな喧噪が聞こえていたのだけは覚えている…との事。 「次の日、コンパクトはお婆ちゃんが近くのお寺に持ってっちゃったみたい。 今でこそ兄貴も 『あの鏡さ、多分お前が美しすぎるから割れたんだよ。ほら、パタリロのオープニングみたいにさあ』 なんて茶化しやがるけど、 その後は普通の鏡さえもしばらくの間見られなかったもんね、あたし」 言い終えた後に、 小さく肩をすくめるY子。 「ほう。怖くて普通の鏡も、か。 Y子も男勝りに見えて結構、可愛いとこあるじゃないの… しかしその話、本当かい?」 自分の話を疑われ、 Y子は紅潮して頬を膨らませた。 「嘘じゃ無いのに! ホラ、もっとこっち来てあたしの顔、 じっくり見なさいよ」 言われた通り お互いの吐息が交錯するほどの間近でよく見ると、 なるほど彼女の両頬には確かに、 鋭利な何かを散らされたかの様な小さい古傷の窪みが うっすらと数カ所見て取れる。 「ね、判ってくれた?」 「ああ、よ~く判ったよ。 お前さんの厚化粧の理由がな」 俺の何気ない失言が彼女の中のデリケートな何かをいたく刺激したものか、 その後しばらくの間Y子はひと言も口を利いてはくれなかった。 もっともその後、 丁度彼女に顔を近づけていたところを 忘れ物を取りに来た同サークルの後輩が偶然目撃した様で、 誤解を解くために俺はさんざん要らぬ苦労を強いられる羽目になってしまったのだが、 それはまた別の話。
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